気怠い暑さが酷くなってきた夏のある日。特に理由もなく狛枝君の部屋に集まっていた私たちは、やはり何をするでもなくクーラーの効いた涼しい部屋の中でゴロゴロとしていた。
 私は狛枝君の蔵書を借りて読み、狛枝君も新しい本でも買ったのか真新しく綺麗な本をペラリペラリと捲っていた。本を読む私たちから少し離れた壁際、そこには眠いのか目を閉じたカムクラ君が座りながら壁に寄りかかるようにしている。カムクラ君は寝ているところを起こすと非常に怖い――髪の毛を震わせて怒る姿はまさに幽霊のようだ――だから私たちは彼を起こさないように黙々と本を読み続けていた。
 狛枝君の速度には適わないが、自分もペラペラとそれなりの速度で頁を捲っていく。適当に取った本なのだけど意外と面白かった。姿を見せない怪異には返事をしないことが一番有用だなんて面白い観点だ。確かによくある怖い話だって返事をした時点で詰みだったりするなあ、なんて考えたり。
 そうやって静かさを保っていた狛枝君の部屋。その中で初めて大きな音を出したのは狛枝君の持つスマホからだった。けたたましく着信音を鳴らすそれを狛枝君はちょっと面倒くさそうに取り出すと、スマホを耳に持っていく。
「何?」
 顔には心底面倒臭いというように描かれているのに声の中には少しだけ喜びのような物が見え隠れしている。そんな二律背反なことを狛枝君が見せる相手なんて一人くらいしか知らない。日向君だろう。
「え、やだよ。それくらい一人で出来ないわけ?」
 げんなりとしたような顔で言うくせに、いそいそと何かの準備を始め出した狛枝君。なんだこれ、面白い。酷いツンデレだってここまでしないだろう。
「あーあ、予備学科に時間を割くなんて嫌なんだけど。まあ、一人で頑張りなよ」
 準備してるくせによく言う。
「何かと思ったら創からですか」
「うわあ! 驚いたあ、起きてたんだ」
「つい先程」
 のそり、顔を出したカムクラ君に肩が跳ねる。びっくりした。物音もせず近寄ってくるカムクラ君はどんな創作物の幽霊よりも怖い。
「あ、カムクラクンおはよう。どうやらキミのお兄さんがミスしちゃったらしくてさ。少し出かけてくるよ」
「……貴方達だけでは不安なので僕も行きます」
 あれ、カムクラ君も行くんだ。まあ自分のお兄ちゃんが窮地に陥ってたりしたら助けたくなったりするのかな。私には兄弟が居ないからよく分からないけど。
「カムクラクンも来るの? まあ、良いけど……。ごめんさん、留守番お願い出来る?」
「まかされたー」
 むしろ本が読めて願ったり叶ったりである。本音を言うとクーラーの効いた部屋から出たくないのだ。日向君には申し訳ないが。
 そう話しているうちに狛枝君とカムクラ君の両名は出かける準備を終えたようで、狛枝君が「それじゃあ留守番よろしく」と言ってドアから出ていく。カムクラ君がそれに続いてドアから出ていこうとして、「僕達が帰ってくるまでドアを開けないでくださいよ」と見送る私に向けて言った。
「へ?」
「僕達が帰ってくるまでドアを開けないでくださいよ」
「それさっき聞いたよ」
 突然の言葉に困惑する私を他所にカムクラ君は「言いましたからね」と言ってさっさと出て言ってしまった。私の視線の端でカチャリと鍵が閉まる。
 はてさて、困ったのは残された私だ。ドアを開けるなと言われたけど、その意図が全く分からない。宅配とか来るかもしれないけど私は受け取らなくても良いとかそういう意図なんだろうか。だけどそれを家主である狛枝君が言うなら分かるけど、カムクラ君がわざわざ言うだろうか。
「んー、まあ考えても仕方ないか」
 私は先程まで座っていたクッションに座り直して本を読み直す。天才の意図が凡人に汲めないのは仕方の無いことだ。特に相手がカムクラ君なら尚更だ。

 二人が出かけてから暫く。狛枝君の本棚から気になる本を数冊取り出して読み進めていた私の耳にピンポーンと軽い音が響く。寮に設置されたインターホンだ。
「……?」
 本を閉じて起き上がる。丁度良いところだったのだけど、来客なら仕方ないだろう。それにしてもインターホンとは珍しい。希望ヶ峰学園のみんなは個性的な人が多くて、インターホンを使うよりも先にドアを開けてたり、声で誰だかすぐに分かったりする。宅配だろうか? それなら面倒臭いなあ、なんて考えてしまう。置き配で良いじゃん。出るかどうか迷う自分がいる。
→無視する
「はーい」
私は玄関に向かってそう言うと、ドア越しに声が聞こえた。
「あ、さん。そこに居る?」
「狛枝君? 居るけど。どうしたの?」
「鈍臭くて劣悪なボクらしいんだけどさ……。鍵を落としちゃって。ドアを開けてくれないかな」
 なるほど。日常的に幸運と不幸に襲われる彼の事だ。鍵を無くしてしまうのもよくあることだった。鍵を幾度となく無くしていた不憫な彼を思い出して私はドアに近寄る。
「ちょっと待っててねー」
 鍵を回そうとする。カチャ、と金属製のそれに手が触れた時、彼のある言葉を思い返す。
 ――僕達が帰ってくるまでドアを開けないでください。
 部屋を出ていくカムクラ君が残した言葉。正しく今のこの状況じゃなかろうか。
 鍵を開けようとした手を下ろす。そういえば、聞こえてきているのは狛枝君の声だけだ。カムクラ君は? カムクラ君の声は聞こえない。彼はどこに行っているのだろう。カムクラ君は『僕達』が帰ってくるまでドアを開けるな、と言った。それは、狛枝君とカムクラ君の二人が揃って帰ってくるまでドアを開けるな、という意味だったんだろうか――。
「ねえ、さん? 居るんでしょ、開けてくれないかな」
「うん。その前に、……質問ちょっと良い?」
「質問?」
「カムクラ君と一緒に行ったはずだよね? カムクラ君、そこに居るの?」
「ああ、カムクラクンなら、先に日向クンの部屋に行っちゃったよ。ボクは途中で忘れ物を思い出したんだ。それでボクだけ帰ってきたってワケ」
「そうなんだ。じゃあ忘れ物って何?」
「資料だよ」
 資料、と言われてしまえば私はその辺のことはよく分からない。カムクラ君が居ない理由もハッキリした。でも、彼が僕達が帰るまでと二度も念押ししたのに狛枝君だけ帰らせるなんてことを、自分が言ったことと矛盾するような行動をするような人だろうか。
「早く開けてくれると嬉しいんだけど……。日向君とカムクラ君の二人を待たせている訳だからね。早く開けて欲しいな」
 日向君とカムクラ君を待たせている。その申し訳なさと罪悪感はずしりと胸に響く。しかもドアの外で開くのを待っている狛枝君もそうだ。私はクーラーの効いた涼しい空間にいるが、気怠い夏の暑さに晒されている狛枝君はどうだろう。熱中症にだってなりかねない。
「早く開けてよ」
 狛枝君の声がする。私は手を彷徨わせる。
 私は……。

→開ける

→開けない