私はインターホンを無視して本を読み進めることにした。
 だって、今本当に面白い所なのだ。カムクラ君だって忠告を要約するなら出るなと言っていたし、もし宅配だったとしても「気が付かなかった」だとか「宅配なんて来てなかった」と嘘をつけばいいのだ。狛枝君には悪いけど。
 ごろんとクッションを背に、自分にとって気持ちのいい体勢で本が読めるように再調整する。そうしている間に、インターホンが何度かピンポーンピンポーンと連続で鳴らされていたがそんなものはすべて無視した。今の私は来訪者よりも本の方が重要なのである。

 何度も鳴らされるインターホンをバックグラウンドミュージックに、何頁か読み進めているとインターホンでは埒が明かないと思ったのか、来訪者はドアを叩き始めた。どんどんっと勢いよく叩かれる音に、私は少し背筋が凍った。
 宅配なら留守だと分かれば帰るはずだ。狛枝君の知人の誰かなら、インターホンを鳴らして出てこなかった時点で諦めるはずだろう。こんな力任せでドアを叩くような人なんて普通ならいない。なのに、この来訪者はインターホンで留守だと分かったはずなのに(実際は居留守だが)、ドアを叩き出すなんて普通ならやらない筈のことを平然と行って見せているのだ。
「ねえ、さん。いるんでしょ? ドアを開けてよ」
 妙なものを覚え始めたその矢先。ドア越しの声が部屋に響く。間違いない、この声は狛枝君の声だ。
さん、いるのはわかってるんだよ? どうしたの? ねえ、ここを開けてよ、開けてよ、開けてよ」
 私は読んでいた本を思わず閉じて口を覆う。そうでもしないと悲鳴が出来そうだった。
 狛枝君の声なのに、狛枝君の声と同時に荒々しいドアを叩く音が響き渡る。開けてよ、ドンドンドン、開けてよ、ドンドン。声と音がぐちゃぐちゃになりながら私の鼓膜に届くのが嫌だった。
 狛枝君はこんなことしない、それが分かってるからこその恐怖だった。
「開けて? 開けて、開けてさんあけてあけてさんあけて」
 叩く音に交じってドアノブを力任せに回す音が加わる。声と二種類の音が頭を壊してしまいそうで私はクッションに頭を押し付けるようにして音から逃げようとする。
 
「どうして答えてくれないの?」

 途端、ドアが壊れるんじゃないかって程軋んだ音を立てるのを聞いた。
 もう声なんて聞こえない。向こうももう騙せるなんて思ってないのだろう。しっちゃかめっちゃかにドアを殴る音がする。定期的に酷い殴打音もする。頭突きか何かでもしているのかもしれない。もう何度も口から出ていきそうになった悲鳴を無理矢理押し込んで漏れてしまわないように必死に抑えつける。
 先ほど読んでいた本。姿を見せない怪異は言質を、すなわち返事を取ろうとする。だから、一番の対策は返事をしてしまわないこと。会話を成立させた時点で向こうのペースに乗せられてしまう、とその本には書いてあった。本当かどうかなんて分からないけれど、実際こうやって姿を見せない怪異が出た以上、私にできることなんて返事をしないこと、ほんの少しの悲鳴も奴に聞かせないことくらいなのだ。
 あけて、あけてと再度ドアの向こうから声が聞こえだす。私はそれが怖くて耳を覆う。
 早く、早く、お願いだから帰ってきて。ただそれだけを祈りながら、私はクッションに頭をうずめた。

「ねぇ……。起きてる……?」
 上半身が揺らされる感覚。ぐわんぐわんと頭が揺さぶられて、私は目を覚ます。
 重い瞼を開けると、そこには部屋を照らす電灯と私を覗き込む狛枝君の顔。
「……だいぶ参ってるみたいだね?」
「ん……」
 背中の柔らかい感触から離れるように身を起こすと、覗き込んでいた狛枝君も釣られて身を起こす。どうやら背中の感触はクッションだったようだ。ぱちぱちと目を瞬かせながら働かない頭でなんとか状況の確認をしようと脳が張り切る。
 どうやら狛枝君とカムクラ君は既に帰ってきていたようで。クッションを枕にして寝ていた私を狛枝君が起こしてくれたみたいだ。
「ドアは……」
「ドア? ドアがどうかしたの?」
 狛枝君は全く身に覚えが無いようなそぶりを見せる。どうやらあれだけ殴られていたはずのドアには全くの無傷だったようだ。あんなに乱暴にされていたのだから傷の一つぐらいあってもおかしくない筈なのに。
「ううん。……えっと、帰ってくる前とかに誰かとすれ違ったりとか、した?」
「誰ともすれ違ってなかったと思うけど……。誰か来てた?」
「……わかんない」
 あれは、夢だったんだろうか。
 あれだけ恐ろしかった謎の声も、あの乱暴な音も、全て夢だったんだろうか。なんだか釈然としない気分だ。
「……多分、夢だったんだと思う」
 夢であってほしい。そう思った。だからそう言った。言われた狛枝君は納得いかない顔だったけど、「ふぅん……」と渋々といった形で引き下がって、それ以上は聞いてくることはなかった。

「本当に夢だと思いますか?」狛枝君が別部屋に去った後、それまで沈黙を貫いていたカムクラ君が聞く。彼の顔はいつでも無表情でその感情は読み取れない。
「わかんないや……。まだ耳に残ってるあの音は事実だった気がするし、夢みたいな出来事だったような気もする。あんな夢、二度は懲り懲りだけど」
 私がそう答えると、カムクラ君は「そうですか」とだけ呟いた。
「でもカムクラ君がわざわざあんな助言を残すくらいだったし、本当だったのかなと思うよ」
「助言……?」分かっていなさそうな顔をカムクラ君がする。
「いやほら、僕達が帰ってくるまで開けたらダメって感じの事言ってたじゃない」
「ああ、あれですか。あれは一人になった貴方が「気になったことが出来たから出かけて来る」だとか、ロクでもないことしでかさないように釘刺しただけですよ」
 そう言って意地の悪い笑みを浮かべるカムクラ君。ロクでもないことをしでかさないための釘刺しって……。カムクラ君の中では私はどういう人間なんだろうか。狛枝君よりはまだマシと自負しているが、カムクラ君の中では私も狛枝君もそう変わらないのかもしれない。
「心外だなあ……」
「なら日々の行動を少しは改めて見たらどうですか」
 カムクラ君の言葉は厳しい。私はがっくりと肩を落とす。カムクラ君は全く意にも介さず、「一人で居たあなたが何を見たに聞いたにせよ、きっとそれはただの夢だったんだと思いますよ」と言ってのける。
「夢、かあ」
「そう考えた方が精神的にも気楽になります」
 そうなのかなあと首を傾げた時、キッチンの方から狛枝君が「これからご飯作ろうと思うけど二人とも食べて帰る?」と顔を出した。私は「食べるから作るのちょっと待って!」と返す。狛枝君の料理スキルは壊滅的なのだ。さっきの出来事が夢だったのか現だったのか分からないにせよ、せっかく生き残ったのに狛枝君の料理で死にかけるなんて心底御免である。
「カムクラ君が作ってくれるって言ってるよー!」
「はい? 巻き込むのはやめてくだ……」
「いやーカムクラ君の料理って楽しみだなー!」
 渋るカムクラ君の首根っこを逃がさないようしっかりと掴んで、私たちはキッチンに移動する。カムクラ君は心底めんどくさそうな表情をまだしていたが、私があんまりにも掴んで離さないので次第に諦めたらしい。
 その後、ただのお湯を爆発させる狛枝君に少々ドン引きしたりしながら、ただの料理でこれ以上ない命のやり取りをしている目の前の惨状の酷さは先ほどの恐怖体験なんて目でもなくて、ご飯を食べる頃にはあの謎の来訪者のことはまるで夢だったかのように完全に忘れていったのだった。



TRUE END 「夢か現か」