どれくらいの時間が過ぎたんだろう。
 外からは鳥の鳴き声が時折聞こえてきていた。朝が近いのだろうか。それと同時に「あし……、あ、し……。あし」というまた別の声が何度も聞こえてきて居たが、時折聞こえてくる鳥の鳴き声に集中することでなんとか心の平静を保てていた。
『今大丈夫?』
 スマホが反応する。久しぶりの狛枝君からの通知だった。
『大丈夫、だと思う。外からはなんか足? って聞こえてきてるけど』
『ようやく見つけたんだ。何とかなりそうだよ』
 その言葉を見た瞬間、体中が沸き立つような感覚に陥った。
 この言葉を聞くのがどんなに待ち遠しかったか。恐怖とまた違った何かが心臓の拍動を早まらせる。真っ暗闇のこの押し入れの中に光が差したような気がした。
『先に聞いておきたいんだけど、ひとりかくれんぼを開始してからどれくらい経った?』
 私はスマホをスワイプして時計を確かめる。時刻は五時前だった。確か夜中の三時を少し過ぎたあたりからひとりかくれんぼを始めだしたはずだから、まだ二時間は経ってはいないことになる。
『正確には分からないけど、二時間は経ってないのは確かだよ』
『OK。それなら大丈夫』
 大丈夫という言葉にほっと胸をなでおろす。そういえばこの遊びは二時間以内には終わらせないといけないというルールがあったはずだ。もし二時間を過ぎていたらどうなっていたんだろう。最悪の場合を想定しては、それを何とか頭から振り払う。
『ここからが本題。次にボクがまた連絡するから、それを確認したらスマホのアラームでも着信音でもなんでもいいから長く音を流すんだ。そうしたらスマホは押し入れに置いたまま、息を止めて静かに台所に行って。塩水を取ったら、元のルール通りに塩水を口に含んでぬいぐるみに吹きかける。吹きかけたら必ず「は一抜けた」を二回、「次はイズルがかくれんぼ」で終わらして』
 私は唐突に出てきたカムクラ君の名前にたじろぐ。
『イズルってカムクラ君の名前だよね? いいの?』
『本人の了承は得てる。この返信を見たらすぐに実行して。終わらせることが出来たら、キミはもう大丈夫。寮のロビーでも、近くのコンビニでも、とにかく家から離れて。キミの家の中に何体居るかはわからない。だからとりあえずカムクラクンに一人消してもらうんだ。その後はボク、カムクラクン、ボク。交互にやって消していく。ボクたちのことなら気にしないで。自分の事だけを考えるんだ』
 思わずその通知に返信したくなったが、何とか堪える。狛枝君はすぐに実行しろと言った。それにカムクラ君も交えて対処しようとしてくれているのだ。それを無下にすることなんて到底出来ない。
 私はスマホのアプリを開く。よく愛用している音楽アプリ。いくつもの音楽が並ぶ中、その中で思いつく限りアップテンポな曲を選ぶ。スマホの音量を最大にして、一呼吸を入れる。これを流したら、もしかすると隣人から苦情がくるかもしれないけど知ったことじゃない。命がかかっているのだから。
 私は再生ボタンを押す。その瞬間、空気が変わった。突如言い表せない視線を感じる。一つ二つなんてやわな物じゃない。竦んでしまいそうになるが、自分自身に発破を掛けて襖をゆっくりと開く。忍び足で押し入れから抜け出す。黒いもやがかかった何かが部屋の中に何個も見えた。悲鳴が出そうになるのを必死に我慢して、部屋を抜け出す。

 台所に着いた私は塩水の入ったコップを持ち、中身を口に含んだ。口の中一杯にしょっぱい味が広がるが、そんなことは気にしてられることじゃない。早く、風呂場に行かないと。
 台所を出て、風呂場に向かう最中。廊下の隅に何かが見えた。何かと思って、目を凝らしては後悔する。それは子供だった。四つん這いのように床を這っているそれの腕の関節は人間の可動域を明らかに逸脱していた。虚ろな声がその口から漏れ出ている。
「オ……ア、サ」
 耳をふさぎたくなるような悲しい声だった。
 何かを探すように床を這いつくばるその子供は風呂場の入り口の前に居る。つまり、風呂場に行くにはその子供の横を通る必要があるのだ。もう既に心臓は破裂するんじゃないかってほどバクバクと動いていた。怖い。でも行かないと。
 足を進める。子供の前に立った。子供は見ない。更に足を進める。子供の横を通り過ぎる。子供は此方を見ない。
「ド……コ……」
 無事、子供を通りすぎた。
 結構近い距離を通った気がしたが、子供は終始此方に気づくことは無かった。塩水を口に含んでいるからだろうか。もしそうなら塩水の力がすごすぎる。これを忘れていった私はどれだけ馬鹿だったんだろうか。
 そう思いながら風呂場に到着する。風呂場の中は勿論のこと水を張った風呂桶はそのままで、その底には赤い糸がまかれたぬいぐるみが沈んでいた。私はぬいぐるみをそこから掬いだす。口に含んだ塩水をぬいぐるみに吹きかけた。
は一抜けた。は一抜けた」
 指示通り二回。風呂場だからだろうか、自分の声が妙に反響した。そして、「次はイズルがかくれんぼ」と呟く。
 その瞬間、ぬいぐるみがにやり、と笑った気がした。ううん、気がしただけだ。そう自分に言い聞かせながら、風呂場を後にする。風呂場から廊下に向かうとき、既に子供は居なかった。不思議に思ったが、それ以上に早くここから出るべきだと脳が警鐘を鳴らしていた。その警鐘に従って、靴を履いて玄関のドアを開く。ドアを開いた時、少しだけ明るんだ空が、私の目に差し込んでいった。かくれんぼを始めてから、初めて見た本物の光だった。