寒戸の婆

 目を覚ます。起き上がろうとすれば腰は痛くて、背筋を伸ばそうとすると鋭い痛みが私を貫く。まるで老婆になったみたいだと思って手元を見れば皺くちゃな手が目に映った。これが私の手なんだろうか。信じられなくて痛む腰に鞭打ちながら鏡の前まで歩くとその鏡面には見慣れない老婆が映っていた。いや、見慣れないというのは正しくない。だって鏡には私の面影を残す老婆が居たのだから。
「なにこれ」
 ガラガラな声だった。枯れ果てた声は一瞬私ですら私の声だと思えなかったほどだ。皺くちゃな手を喉へと伸ばす。喉に手のひらのしわしわな感触が伝わる。顔へ手を伸ばせば乾いた肌の感触をその手で嫌とでも味わった。
 嫌な夢でも見ているのだろうか。窓越しにビュウビュウと荒んだ風が吹いていて窓が揺れる。気味が悪くて私はベッドの毛布へと潜り込んだ。何も見たくない、何も感じたくない。もし、このまま戻れなかったら、この部屋で誰にも見られないようにずっと一人で……。そう思って血の気が引く。毛布に入り込むも、慣れない老婆の体がすぐに悲鳴を上げる。痛む節々に耐えながら、夢なら早く覚めてくれと私は祈るしかできなかった。

 毛布の中にくるまってから暫く。窓に吹き付ける強い風は止むことが無い。目を閉じても目は覚めることはなく、ただ暗闇だけを感じていたその場所に新しい音が響く。コンコンと軽いノック音。誰かが戸を叩いている。そう分かった瞬間、頭から血の気が引いた。こんな今の自分を見られたくない! そう思って更に毛布へと包まる。コンコンと未だノック音が響く。嫌だ。お願いだから帰って。居留守を決め込んで私は祈る。
「留守なのかなぁ」
 戸越しに聞こえた声は苗木君の物だった。そう、留守なの。だから帰って。
 そう祈るも虚しく、ガチャというドアが開いた音。その音は布団に入っている筈の自分の耳に嫌に明瞭に聞こえて心臓が止まるような心地がした。
「……開いてる。不用心だ」
 呆れたような苗木君の声。鍵を閉め忘れていたのだ。誰にも会いたくないのなら鍵を閉めればよかったのに。そう思うも後の祭りで。次第に聞こえる靴の音に体を強張らせる。
「寝てるの?」
 靴の音は近づいてくる。このままでは布団に隠れている自分なんてすぐに見つかるだろう。焦りは最高潮に達した。
「ごめん、帰って」
 ガラガラとした声は思いのほか冷たくて、自分でもゾッとした。こんな声が出るのか、と自分ながら自分の声に引く。
「……。その声どうしたの?」
「か、風邪ひいちゃったみたい。お陰で喉が枯れちゃって」
 くしゅんとワザとらしいくしゃみをする。
「その、ね? ……風邪、うつしたくないから。早く帰って、お願い」
 まくしたてるように言う。靴の音が止まった。外の風の音だけが部屋の中に響いている。
「……分かったよ。じゃあボク帰るから。お大事にね。また明日」
 コツコツと遠のいて行く靴の音。ガチャリ、とドアが開く音がしてすぐに閉まった。……帰った、のだろうか。嘘をついて追い返した罪悪感、そして何より彼がどこかに行ってしまったというのが何故か無性に寂しくて自分を抱きしめる。随分と自分勝手な話だ。追い返したのは自分だというのに。
 毛布から少しだけ顔を出す。元気そのものの体を伸ばしてみれば体の至る所が痛んだ。老婆の体というのはこんなにも痛むのだろうか。いずれ来るだろう老後を考えては首を振る。いずれ来る? 今そうなっているのに馬鹿馬鹿しい話だ。
「やっぱり風邪って嘘だったんだ」
 苗木君の声がした。心臓が喉から出ていくんじゃないかってほど驚いて、でも妙に頭は冷静で毛布を深く被りなおす。力の入らない手で毛布を剥がされないようにぎゅっと握って、見られないように。もう遅いかもしれないけど。
 床を靴が踏む音が布越しに聞こえる。見なくても分かる。苗木君がこっちに歩いてきているのだ。
「来ないで!」
 あらんかぎりの声で叫んだ。
「お願いだから見ないで!」
 ガラガラな少し低くなった声を金切声のように上げて。
「私、今っ、すごく醜いのっ。だから見ないで!」
 バサッと毛布の取り払われる音。強く握りしめていたはずの毛布は老婆の力なんかじゃ若い男の子の力なんかには到底敵いっこなくて、お昼の光が目に差し込む。暗闇に慣れていた目にはその光が眩しい。その光から逃げるように皺くちゃな手で顔を覆う。でもその手に、私とは違う瑞々しくて暖かい手が触れた。
「ボクはさんがどんな姿になってても、醜い、なんて思ったりしないよ。だってどんな姿でも、さんはさんなんだから」
 息を呑んだ。覆っていた手を少し緩めて指と指の間から、見開かれた目からの資格情報が入り込む。私の皺まみれの手を苗木君が大切なものに触れるかのように、そっと触れている。
「元に戻れる方法を一緒に探そう。だから、こんなところで一人で引きこもらないで。……一人は寂しいよ」
 脱力した手がだらりと顔から剥がれて落ちるのを苗木君がその手で包み込む。彼の手から伝わってくる体温があんまりにも温かくて優しいものだから、不思議と目頭から熱い何かが零れ落ちていく。
 ――一人は、いやだ。
「…………一人ぼっちはいやだよ……」
 振り絞るような声でそう呟く。すると、外で吹いていた風が更に強まる。ビョオウビョオウと唸り声を上げる風が勢いよく窓のガラスを打ち破った。破片が私たちの頭上からキラキラと瞬くように広がっては落ちてくる。
さんっ!」
 苗木君の焦ったような声。力強く引っ張られたような感触。視界が白く染まって、それ以降は何も。

 瞬きをする。一回二回と何度も目を瞬かせても目の前は暗い。もぞ、と体を動かそうとすれば目の前の暗闇も動いた。
さん、怪我はない?」
 暗闇が喋る。苗木君の声だ。私はどこも痛みは無いということを伝えると、暗闇が明けた。どうやら咄嗟の行動で苗木君が身を挺して落ちて来るガラスの破片から庇っていてくれたようだった。
「苗木君は?」
「ボクも全く。よかった、ボクらツイてたんだよ」
 仮にも超高校級の幸運だからね、と言う苗木君の笑顔を私は見る。怪我がなかったなら僥倖だ。そう思って安堵の笑みを浮かべていると、それとは真反対に苗木君の顔がどんどん仰天へと染まっていく。
「どうしたの?」
さん! 顔!」
 そう大声を上げる苗木君。もしかして顔に傷でもできてしまったんだろうか。ただでさえ老婆になって肌はカサカサになっているというのに、いやだなあ。そう思って手を顔に沿わす。
「……え?」
 つるりとした感触。何度触っても、何度こすってもその感触が指に帰ってきて私は驚く。今日一日、全く感じなかった感触がそこにあった。はじかれたように自分の手のひらを確認する。そこにはもう老婆を思わせるような皺くちゃな手は無く、先ほどの苗木君と同じような若者の手がそこにあった。
「戻ってるんだよさん! よかった!」
 自分の事のように喜ぶ苗木君に、私はまだ頭の理解が追いついていないながらも、何度も首を縦に振る。戻った。元の姿に。何故かはわからない。でも、戻れたというその事実が嬉しくて、何度も手のひらで肌の感触を味わったり、鏡で姿を確認してしまう。
「本当に良かった……。これで一件落着だね」
 私はそれに頷き返そうとして、苗木君と私の間に落ちている物に気が付く。外の光を受けて光るガラスの破片。部屋中に散らばっているこれ。これを片付けなければ本当に一件落着とは言えないだろう。
「部屋を片付け終えたら本当に一件落着、かな」
「あはは……。片付け、ボクも手伝うよ」
「いいの?」
 苗木君が快く承諾してくれる。部屋に置かれていた塵取りと箒を持って私たちは片づけを開始した。苗木君も大き目のガラスの破片を怪我しないように集めてくれていた。苗木君、優しいな。彼が居たおかげで部屋はすぐに片付いた。これで本当に一件落着だ。
 彼が居なかったら、一体どうなっていたのだろう。私は部屋に一人閉じこもって、それで……。そこまで考えてやめる。彼のお陰でそうならなかった。何故だかそう思った。だから、このお話はこれで終わりなのだ。老婆になり果てた少女はもうどこにもいないのだから。
「苗木君」
「ん?」
「ありがとう」
 一緒に居てくれて。
 窓の外、あれほど荒れ狂っていたはずの風は今は止み、見事な青空が窓越しに輝いていた。