
マヨヒガ
「遠野物語を知ってる?」
「ラフカディオ・ハーン?」
「ううん、柳田國男だよ」
狛枝君は「小泉八雲は『怪談』とかだね。確かに似てるけど違うよ」と首を振った。
「その遠野物語がどうかしたの?」
「いやね。今の状況がその遠野物語に出て来る話みたいだ、なんて思っただけだよ」
狛枝君が部屋を見渡す。私も釣られて部屋の内装を見渡した。
学園の一室。和室として作られたその部屋は四畳半のこじんまりとした部屋で。真ん中にポツンと小さな丸机が一つ。その上には湯気を上げる湯飲み。壁には私たちが入ってきた襖二枚とそれに対面するように障子張りの窓が一枚。横を見て見れば、時代を感じさせる違い棚に古めかしい花瓶やらが飾られてあった。奥には火鉢がパチパチと音を立ててはこの部屋をほんのりと暖かくしている。
「どこにでもある和室だと思うけど」
湯気を上げる湯飲みをツンツンと触りながら言う。ほかほかとした温かい湯気をあげるそれは、湯飲みまで温かった。
この部屋は一体何に使われているのだろう。和室というところから超高校級の茶道家とかが入学した時とかに使われるのだろうか。それに淹れ立てのように温かいこのお茶。部屋に入ってから数分は立つというのに全く冷めていない。一体誰がこのお茶を淹れたというんだろう。
「ああそれ。飲んじゃダメだよ」
「……飲まないよ」
相変わらず湯気を上げる湯飲み。ちょっと喉が渇いていたから魅力的に見えていたけど釘を刺されてしまっては仕方ない。渋々コトリと丸机に持っていた湯飲みを戻す。
私は立ち上がって違い棚に置かれた花瓶を見たりしてみる。先ほども言った通り古めかしい花瓶だ。この学園のことだからそれなりに価値の合る花瓶だったりするんだろうか。私にはよくわからないけど。
「気に入った?」
先ほどから私が部屋の中の物を見て回っているからだろうか。狛枝君が首を傾げて聞いた。
「ううん。特にそういう訳でもないよ」
「無欲だね」
「物の価値が分からないだけだよ」
それに学園の一部屋なのだから、ここにある物は学園の備品か何かだろう。学園の備品を盗むほど私は落ちぶれていない。
「それにしてもこんな部屋が学園にあるなんて知らなかったや」
学園に入学してからそれなりの時間が経っている筈なんだけどな。こんな部屋があるなんて知らなかった。
「いや学園にはこんな部屋は無いよ」
「へ? どういうこと?」
狛枝君が訳の分からないことを言う。私は思わず聞き返してしまって、狛枝君を見た。
「言ったでしょ? 遠野物語に似た話があるんだって」
「答えになってないよ。そもそもその似た話って何?」
「マヨヒガだよ。迷い家とも言うんだけど、それは山奥にある家なんだ。その家は訪れた人に富をもたらすんだけど……」
そう言って狛枝君が私たちが入ってきた襖を開ける。
「あっ」
思わず声を上げる。それもそのはず、私たちが通ってきた筈の学園の廊下はそこには無く、新しい和室の部屋がそこには広がっていたのだ。
「やっぱり。ボクらマヨヒガに迷い込んだんだね」
狛枝君がそう言う。私は自分の目が信じられなくて狛枝君の隣に立って襖の奥を覗き込む。でもやっぱりこの部屋とよく似た和室が襖の先には広がっていて私は思わず嘆息をもらした。
自分たちが通ってきた道が消えて新しい部屋が生成される。そんなことってあるんだろうか。
「マヨヒガはその名前の通り一つの家なんだ。行こう」
狛枝君が襖の奥へと消えていく。私も慌ててその後を追った。
次の部屋は先ほどとよく似た和室だった。違うのはその間取りと置かれた家具だろうか。漆塗りの箪笥、水墨画が描かれた屏風に掛け軸。その道に詳しくない私でも一目で高級そうな物だと分かるもので溢れていた。
狛枝君はそんなものたちを一切気にせずに次の襖へと歩いていく。襖を開ける。変わらない藺草の匂いが私たちの鼻を擽る。次の部屋も和室だった。
「……部屋ばっかり。変なの」
「すぐ帰れるよ」
畳を足で踏みしめながら次の部屋。そしてまた次の部屋。変わらない風景と匂いにそろそろ飽き飽きしてきた頃、何度目かも分からない襖を開けるといつもと違う風景がそこに広がっていた。
木造のつるつるとした床の廊下。靴下で滑らないように恐る恐る足を付けて見ればミシリ、という木造特有の音がした。……別に自分が重いから鳴ったとかそうではないと思いたい。
狛枝君は変わって景色に動じることもなく次々と進んでいく。私もあとに続く。曲がってまっすぐ行ってまた曲がって。結構進んだはずなのに私たち以外に人影はない。一つの家なんだと狛枝君が語っていたことを思い出す。家なのに誰も居ないものなのだろうか。不思議だ。
そうして歩いているうちにまた違う景色が前に広がる。玄関だ。古い日本家屋にあるような玄関がそこにはあった。
「出口だ」
ちょっとした段差になっているのを狛枝君に気を遣われながら降りる。一番下の床は石畳になっていて、靴下越しにひんやりとした感触が伝わった。
その先にはガラスの貼られた木造のドアで。スライド式に開くようにできていた。ガラスが貼られているのに、まるで曇ったようにその先は見えない。
ガラリと音が鳴る。狛枝君が最後のドアを開いたのだ。その先は白く見えて全くその全貌がつかめない。なんだか少し怖くなって思わず狛枝君の服を握る。
「大丈夫」
狛枝君が一歩踏み出した。私も遅れて一歩踏み出す。視界が白に包まれて、何もわからなくなる。何も。藺草の匂いが消えた気がした。
気が付けば学園の廊下だった。和室に入るために脱いでいたはずの上靴もいつの間にか履いている。
「帰ってきたの?」
「みたいだね」
私たちが出てきたドアを確認すれば木造のガラス張りのドアも襖も無くて、どこにでもあるような学園のスライド式のドアがそこにあるだけだった。そのドアを開いてもあの和室も玄関もそこには無くて、あるのはごちゃっとした物置だけだ。
「不思議……」
物置に入ると埃っぽい匂いが鼻に入ってくる。藺草の匂いなんてどこにもない。 きょろきょろと物置全体を見渡してみれば、無造作に置かれた机の上に湯飲みが置かれていた。
「ねえ、あれって」
「あの和室にあった物じゃない?」
私は湯飲みを手に取る。変わらない温かさが手に伝わる。そう言えば喉がカラカラだ。飲もうと思って口につけるも直前でやめた。
「飲んでいいと思う?」
「良いと思うよ。無欲だったさんへのマヨヒガからの贈り物じゃない?」
「そっか」
湯飲みを再度口につける。そして今度は一気に飲み干した。口の中に程よい温度のお茶が広がる。乾いた喉を潤わせるそのお茶は何よりも美味しい気がした。
湯飲みを再度机に置く。空っぽになった湯飲みがそこには残った。
「そういえばさ、なんで最初の部屋でお茶を飲んだらダメって止めたの?」
「さぁ。カンかな?」
「カンって……」
「飲んでたらさんだけマヨヒガから帰れなかったりして」
「それは困るなぁ」
あはは、と笑う。
マヨヒガ。訪れた人に富をもたらす不思議な家。突然私たちを迷い込ませたのは迷惑な話だったけど、こんな美味しいお茶が飲めたのならたまにはこういう経験をするのもアリかもしれない。そう思うのは現金な話だろうか。既に冷えた湯飲みを触ってそう思った。