
吊る這う轢かれる
それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏も終りかけたある夜の出来事だった。
「……この家だってさ。出るって有名な家」
私と狛枝君はその二階建ての一軒家を、周りをぐるりと囲む塀の外から眺めていた。
風は存外に冷たく、そういう季節はもう過ぎたのだと感じる。
なのに、私たちはまた肝試しに来てしまっていた。私と狛枝君とカムクラ君、いつものメンバーだ。
発案者は狛枝君だ。奴のオカルト熱は季節に関係なく、いつでも夏真っ盛りらしい。
「二階あたりに女の霊が出るって噂。今はー……見えないけどね。窓に映るらしいよ」
狛枝君の言葉に、私は二階の窓を懐中電灯で照らした。
カムクラ君はというと、道の脇に停めた車から出てこず、運転席側の窓から右肩と頭だけを出して、つまらなそうに家を眺めていた。
「ねえカムクラ君、出てきなよ。一人だけ車乗ってるのはツマラナクない?」と狛枝君が言う。
カムクラ君は大きな欠伸で返す。
「……寒いんですよ。それに、誰がここまでずっと運転してきたと思ってるんですか。……僕は寝ます」
カムクラ君はそう言って、車の中に引っ込み窓を閉めてしまった。
「上着着てこなかった方が悪いと思うんだけどね」と 狛枝君が、アハハ、と笑う。
でも確かに今日の夜は存外冷える。おそらく朝から曇っていたことが原因だと思う……。お天気お姉さんは何と言っていただろうか。そんなことを考えながら、私はもう一度窓を見上げた。
ちなみに、私と狛枝君がいる位置とカムクラ君が乗る車の間には、この家の門がある。門は内側に開いていた。でも、今日は不法侵入はしない。外から眺めるだけだ。理由は、ここがそういうスポットだから。
「噂じゃ女の人……っていうかここの家の娘さんね。事故で下半身が動かなくなったんだって。それから女の人はショックで段々頭がおかしくなって、そのせいで両親はその女の人を、自宅にずっと閉じ込めてたって。酷い話だよね」
と隣で狛枝君が言う。
いつもならここらでカムクラ君の鋭いツッコミが入るのだが、上着を持ってこなかった人間にとっては、この寒さは多少分が悪い。
「それで、事件は起きるんだよ。その女の人が夜、寝ている両親の首をナイフで掻っ切って、自分も自殺したんだ」
「……自殺?」
と問い返しながら、私は何だか周りがさっきよりも寒くなった気がした。背筋がぞわぞわする。
「首吊りだって。首つり自殺。こう、ロープにぶら下がって、ぶらんぶらんと揺れて」
狛枝君が舌をぺろんと出し、身体を揺らす。
でも、私はその時狛枝君の話に違和感を覚えた。女は両親を殺して首吊り自殺をした。けれど、その女は確か……。
「……でも、それって、おかしくないかな?」
「何が?」
「足も動かないのに、どうやって首吊るの?」
「どうやってって。それはさん……」と狛枝君が何か言おうとしていたその口が止まる。
ぞわり、と冷たいものが私の首筋を撫でた。
それはまるで、大きなつららを直接背中に当てられた様な感覚だった。足から頭まで、全身に鳥肌が立つのが分かった。私と狛枝君はほぼ同時に二階の窓を見上げる。二階の一室の窓が徐々に開いていた。ゆっくり、音も無く。
隙間に女の顔が見えた。髪がぼさぼさ。大きく見開いた目が、私たち二人を見据えていた。
窓は開く。隙間が広がり、その首にロープが見えたその時、女は一気に窓の僅かな隙間から外へと身を乗り出した。女が頭から落ちる。途中で、その首に巻いてあったロープが落下を食い止めた。がくんと女の身体が上下に反転し、二階の窓を支点に振り子運動を始める。
ぶらん、ぶらん。
枯木のように細い足。その手にはナイフらしきものが握られている。一つ、二つ、三つ。その身体が痙攣した。ナイフが手から落ちる。その手が宙を掻く。音は何も無い。その内、女の両手がだらりと下に垂れさがった。口が開き、真っ赤な舌がその中に覗いていた。
死んだのか、死んでいるのか。しかし女の目だけは、未だこちらをぎょろりと見据えていた。
私の口から何か悲鳴のようなものが出ようとしていた。
その時、私の首筋に冷たいものが当たった。
「ふひゃっ」
私はついに悲鳴を上げて、実際飛び上がった。
雨だった。しかし、雨のおかげで一瞬だけだが気がそれた。
それから、はっとしてまた二階を見上げたが、そこにはもう何も無かった。首を吊った女の姿も、窓も、閉まったままだった。
「……ああやって、首を吊ったんだね」
隣を見ると狛枝君は笑っていたが、無理をしている笑いだと一目で分かる。でもその時は私も同じ笑いを返していたに違いない。
なるほど、確かにあの方法なら足が不自由でも首が吊れる。すごいものを見ちゃったね。と私が狛枝君に言おうとした時、
――どさり。
私と狛枝君はまた、ほぼ同時に反応した。
何かが落ちた。塀の向こう側。それから、ズル、ズルと布が擦れる音。先程見た首吊りには音は無かった。しかし、今度は音だけがある。私と狛枝君、それとカムクラ君が乗る車の間にある門。門は開いていたのだが、そこから手が出てきた。さっきの女の手だ。ナイフを握っている。もう片方の腕も出てきた。次いで頭。首にはロープ。白い服。見開いた眼。垂れた舌は地面を舐める。
私はカムクラ君に助けを求めようとした。しかし声が出ない。身体が動かない。金縛り。狛枝君も同じみたいだった。
どうしよう。こっちにゆっくり這い寄って来る。足は動いてない。手だけで地面をずるずると。
怖い。それに近い。怖い近いこわい近っ。
這い寄る女と私たちの距離はもう二メートルも離れてなかった。あ、もう駄目かも。本気でそう思う。
突然、光に目が眩んだ。エンジン音とブレーキ音。
気がつくと、私たちが乗ってきた車が目の前にあった。金縛りが解け、身体が動く。身体は動いたが、私はしばらくその場を動けなかった。
ウィーと運転席側の窓が開き、カムクラ君の眠たそうな声が聞こえる。
「……もういいでしょう。雨も降ってきましたし、帰りましょう」
私と狛枝君は顔を見合わせた。
おそるおそる車の下を覗くが、そこには何もいない。
「カムクラクン……」
狛枝君が呟く。
「……轢いた……」
「はい? ああ、そういや妙な手ごたえがありましたね。大きめのカエルでもつぶしましたか?」
私は何も言えないでいた。狛枝君もカムクラ君をまじまじ見つめるだけだった。そんな私たちにカムクラ君は怪訝そうな顔を見せて、
「どうしたんですか二人とも。なにかありましたか? ……まあ、何を見ても聞いても。それは幻覚に幻聴ですよ。ほら、乗ってください。乗らないのなら置いていきます」
私と狛枝君はもう一度顔を見合わせ、お互い何も言わずに車に乗り込んだ。
それは蛙とコオロギの鳴き声が響く、夏も終わりかけたある夜の出来事だった。