道連れ岬

 深夜十一時。私とカムクラ君と狛枝君の三人はその夜、地元では有名なとある自殺スポットに来ていた。
 私たちの通う希望ヶ峰学園から二時間ほど車を走らせると太平洋に出る。そこから海岸沿いの道を少し走ると、ちょうどカーブのところでガードレールが途切れていて、崖が海に向かってぐんとせり出している場所がある。崖から海面までの高さは、素人目で目測して五十メートルくらい。ここが問題のスポットだ。もしもあそこから海に飛び込めば、下にある岩礁にかなりの確立で体を打ち付けて、すぐに天国に向けてUターンできるだろう。そしてここは、実際にたびたびUターンラッシュが起きる場所でもあるらしい。
『道連れ岬』
 それがこの崖につけられた名前だった。

 私たちは近くのトイレと駐車場のある休憩箇所に車を停め、歩いてその場所に向かった。
「そういえば。何でここ『道連れ岬』って言うんだろ?」
 私は崖までのちょっとした上り坂を歩きながら、今日ここに私とカムクラ君を連れて来た張本人である狛枝君に訊いてみた。
「悪いけどボクも知らないんだよね」
 狛枝君はそう言ってアハハと笑う。カムクラ君はその隣であくびをかみ殺していた。
「まあ、ね。噂だけどさ。ここに来るとなんだか無性に死にたくなるらしいよ?」
「どういうこと?」
「んーとね、ボクが聞いた話の一つにはさ。前にボクたちみたいに三人で、ここに見物しに来た奴らがいたらしくてね。それで、その人たちの中で一人が突然変になって、崖から飛ぼうとしたんだって。しかもそれを止めようとしたもう一人も、巻き添えを食らって落ちちゃったって」
「そっかあ」
「……巻き込まれた人ははいい迷惑ですね」
 カムクラ君がかみ殺し損ねた欠伸と一緒に小さく呟く。たぶん眠いんだと思う。ちなみに、ここまで運転してきてくれたのはカムクラ君だ。なんでも超高校級の運転手の才能を持ってるとかなんとかって。……私たちの歳で免許証って取れたっけ。まあ、難しいことは考えないことにしておこう。そんなこんなでそういうスポットに行くときはいつも、なぜかオカルトに詳しい狛枝君が提案して、私が賛同し、カムクラ君が足に使われるのだった。
「いや、実際いい迷惑どころじゃないらしいよ。実際死んだのはその止めに入った一人らしくてね」
 「え?」と言ったのは私だ。だってそれは理不尽だ。飛ぼうとした人じゃなくて、止めに入った人だけ死ぬなんて。
「詳しいことはそんな知らないんだけどね。多いらしいよ、同じような事件」
「ふーん」と私。
「……その同じような事件ってのは、どこまで同じような事件なんです?」
 珍しく興味がわいたのか、カムクラ君が訊く。
「うーん、知らないかな。あんまり詳しく訊かなかったからね……。あ、そこだよ」
 話しているうちに、私たちはカーブのガードレールが途切れている箇所まで来ていた。そこから先は、私たちの乗ってきた軽自動車が横に二台ギリギリ停まれる程のスペースしかない。近くに外灯があったけれど、電球が切れかけているのか、中途半端な光量が逆に不気味さを演出していた。ざん、と下のほうで波が岩を打つ音が聞こえる。
「誰もいないですね」
 カムクラ君は心底つまらなそうだ。
「まあ、他の噂だと、崖の下に何人も人が見えるだとか、手が伸びてくるだとか……」
 と言いながら、狛枝君がガードレールをまたぐ。ガードレールの向こう側は安全ロープなども一切張っておらず、確かに『どうぞお飛びください』といった場所ではある。
「ちょっと、ねえ。狛枝君、危ないよ。いきなり飛びたくなったらどうするの?」
 私の忠告を無視して、狛枝君は崖のふちに立って下を覗き込む。
「わー、すごいよ」
 ……この人、不運か何かでそのまま落ちてしまえばいいのに。
「死にたくなったら一人で飛んでください」
 カムクラ君はそう言って、崖に背を向ける形でガードレールに腰掛け、車から持ってきたジュースの入ったペットボトルに口をつけた。
 私はというと、どうしようかと迷った挙句、一応ガードレールを乗り越えて、何かあったときにすぐ動けるよう待機しておく。

 しばらくして、じろじろと海を覗き込んでいた狛枝君が立ち上がった。
「うーん、何もないね。ねえ、ところで二人とも、今、死にたくなったりしてる?」
 どんな質問なのと思いながらも、私は「別に」と首を横に振る。カムクラ君は狛枝君に背を向けたままで、「死ぬほど帰りたいです」とだけ言った。
 狛枝君が自分の右手にしている腕時計で時間を確認する。
「えーでもさ。ここまで来て何も起こらないまま帰るってのもね。……ねぇ、もうちょっと粘ってみない?」
「一人で粘っとけばいいです」
「冷たいこと言わないでよカムクラ君。ボクらクラスメイトでしょ。ほら、暇なら星でも見てればいいんじゃない」
「死にたくなればいいのに」
 二人の即興漫才コンビは今日も冴えている。
 と言うわけで。私たちは二十分だけという条件付で、もう少しだけここで起きるかもしれない『何か』を待つことになった。

 それから私たち三人は並んでガードレールに腰掛け、崖側に足を伸ばして座っていた。
 私はボケーっと空を見上げ、カムクラ君は腕を組んで目を瞑り、狛枝君はせわしなく周りを見回している。
「ごめん、ボクちょっとお手洗い行ってくるね」
 十分くらいたった時、狛枝君がそう言って立ち上がり、車を停めた休憩所に向かって歩いていった。隣を見ると、カムクラ君は先ほどから目を閉じたままピクリとも動かない。
 私はまた空を見上げた。先ほど狛枝君が言っていた、この崖にまつわる話をふと思い出す。
 この崖に来ると無性に死にたくなると言うのは本当なのかな。今のところ自分の精神に変わりはないけど。
「『道連れ岬』って言うんでしたっけ……ここ」
 突然隣から声がしたので、カムクラ君の声だとはわかっていても私は驚いて実際腰が浮いた。
「なに? いきなりどうしたの?」
「いえ、ちょっと」
 近くにある外灯の光が、カムクラ君の表情をわずかに照らす。カムクラ君はいまだ目を開いてなかった。
「さっき狛枝が言ってたでしょう。一人が飛ぼうとして、二人が落ちて、一人が死んで……、なんだかしっくりこないので。考えてました」
「それで、なにか分かった?」
「さあ、分かりません。ただの尾ひれのついた噂話なのかもしれませんし。そもそも、全部が超常現象の仕業というのなら、僕が考えなくとも良いんですが」
「うん」
 カムクラ君が何に引っかかっているのか分からなかったので、適当に返事をする。カムクラ君はそれ以降何も言わなくなった。本当に眠ってしまったのかも知れない。

 しばらくたって、誰かの足音に私は振り返った。狛枝君だ。狛枝君が坂の下からこちらに歩いてきていた。大分長いトイレだったような気がする。私は狛枝君が来たら『もうそろそろ帰ろう?』 と提案する気でいた。しかし、歩いてくる狛枝君の様子に、私は、おや、と思う。
 狛枝君はふらふらとおぼつかない足取りだった。どことなく様子がおかしい。私は立ち上がった。
「ねーえー、狛枝君、どうしたの?」
 私の声にも狛枝君は反応しない。俯いて、左右に揺れながら歩いてくる。
「ね、ねえ……」
 狛枝君は私たちのそばまで来ると、黙ってガードレールを跨ぎ、私とカムクラ君の横を通り過ぎた。表情はうつろで、その目は前しか見ていない。三角定規の形をした崖の先端。そこから先は何もない。狛枝君は振り向かない。悪ふざけをしているのか。狛枝君の背中。崖の先に続く暗闇。海。
何かがおかしい。その瞬間、体中から脂汗が吹き出た。
「ねえ狛枝君っ!」
 私は狛枝君を引き戻そうと手を伸ばして狛枝君の腕を掴む。途端とんでもない力で彼に引っ張られてバランスを崩しかけてしまう。けれど、そんな私を誰かが強く支えた。振り返る。カムクラ君だった。
「手を放してください」
 カムクラ君の声は冷静だった。
「でも狛枝君が!」
「あれは狛枝ではありません」
「……え?」
カムクラ君の言葉に、私は崖の先端に立ち今もなおこちらに背を向けて私たちを暗い海に引きずり込もうとする人物を見つめた。
 今は後姿だが、あれはどう見たって狛枝君だ。先まで一緒にいた狛枝君だ。
「今は何時ですか?」
 カムクラ君が私に向かって言う。その額にも脂汗が浮かんでいた。
「答えてください。今は何時ですか?」
 カムクラ君は真剣な表情だった。少し焦りが浮かんだその顔を見て、私はわけが分からなかったが、自分の腕時計を見て「……十一時、四十分」と言った。少しずつ少しずつ私たちは暗い海へと近づいていく。
「そうでしょう。ですから、あれは狛枝ではありません」
 私はカムクラ君が何を言っているのか分からず、かといって私の肩をつかむカムクラ君の腕を振りほどくこともできず、ただ、目の前の狛枝君らしき人間を凝視する。
 あれは狛枝君じゃない? 
 じゃあ、誰だというんだろう?
 時間が何の関係が?
 あいつが狛枝君だと思ったから伸ばした私の腕。掴んだ彼の手。迷いと混乱と疑心によって、私はいったん腕を放した。今まで引っ張られていた反動で私は後ろのめりに転びそうになるのをしっかりとカムクラ君が支えてくれたおかげで何とかなる。私がバランスを取り戻したその時、目の前のそいつが振り向いた。首だけで、180度ぐるりと。そいつは笑っていた。顔の中で頬だけが歪んだ気持ち悪い笑み。狛枝君の顔で。
 その笑みで私も分かった。あれは狛枝君じゃない。
 そいつは私とカムクラ君に気持ち悪い笑みを見せると、そのまま首だけ振り向いたままの姿勢で……飛んだ。
「あ、」
 私は思わず口に出していた。
 頬だけで笑いながら、そいつはあっという間に私らの視界から消えた。何かが水面に落ちる音はしなかった。
「……飛んだ」
 私はしばらく唖然としていた。口も開きっぱなしだったと思う。
 突っ立ったままの私の横を抜けて、カムクラ君が数十メートル下の海を覗き込んだ。
「何もいませんね。浮かんでもこない」
 私は何も返せない。カムクラ君はそんな私の横をまた通り過ぎて。
「ほら、いきますよ。……狛枝なら大丈夫です」
そう言ってガードレールを跨ぎ、車を停めた休憩所への下り坂を早足で降り始めた。
 私もそこでようやく我に帰って、崖の下を覗くか、カムクラ君についていくか迷った挙句、急いでカムクラ君の後を追った。
「カムクラ君、ねえカムクラ君ってば! 警察は呼ばなくてもいいの?」
「まだいいです」
 カムクラ君は休憩箇所まで降りると、車を通り過ぎ、迷うことなく男子トイレに入った。一瞬私はためらったが、こんなところに一人でなんて居たくなくてすぐに私も続く。
 トイレに入った瞬間、私ははっとする。
 洗面所の鏡の前で、狛枝君がうつ伏せで倒れていた。急いで駆け寄る。狛枝君はぐうぐう眠っていた。気絶していたと言ってあげた方が狛枝君は喜ぶかもしれないけど。私は狛枝君がそこにいることがまだ信じられないでいた。
 例え狛枝君じゃなくても、ついさっき狛枝君の形をしたものが確かに崖から飛んだのだから。
「さっさと起きなさい狛枝」
 カムクラ君が屈み込み、寝ている狛枝君の右側頭部を軽くノックする。三度目で狛枝君は目覚めた。
「いて、何。ん……、って、うわっ!? ここどこ?」
 驚愕の表情を浮かべる狛枝君に私は遠慮なく顔をペタペタと触る。狛枝君は容赦なく触られたことに頬を少し赤く染めていたが、そんなのはどうでもいい。
 まぎれもなく、これは狛枝君だ。私は確信する。
 急にどっと安堵の気持ちが押し寄せてきて、私は上半身だけ起こした狛枝君の背中を一発蹴った。
「いてっ! え、何? ボク? ボクが何かした?」
 何かしたも何も、私は狛枝君に何と説明したら良いものか考えて、結局そのまま言うことにした。
「狛枝君が、……ううん。狛枝君にそっくりなのが、私たちの目の前で崖から飛んだの」
 それを聞いた狛枝君は目をパチパチさせて、
「ハァ? ……なにそれホント? ボク死んだの? あーあ、すごく見たかったよその場面」
 狛枝君だ。目の前のコイツはまぎれもなく狛枝君過ぎるほど狛枝君だ。人の心配をなんだと思ってるんだか。あきれて笑いが出るほどだった。
「ほら、帰りますよ」
 カムクラ君が言った。
「ええ? そんな面白いことあったんだったらまだ居ようよ。ボクだけ見てないの損だと思わない?」
「思いません。二十分はもう経ってますので。僕は帰ります。僕の車で帰るか、ここに残るかはあなたたち次第です」
 そう言ってカムクラ君はトイレから出て行こうとした。けれど何か思い出したように立ち止まり、「ああ、そうだ。忘れていました」と独り言のように呟くと、つかつかと洗面台の前に戻ってきた。
 ビシッ。
 深夜のトイレ内に異様な音が響いた。
 カムクラ君が手にしていたペットボトル。カムクラ君はその底を持ち、一番硬い蓋の部分をまっすぐ洗面所の鏡に叩きつけたのだ。蜘蛛の巣状に白い亀裂の入った鏡は、もう誰の顔も正常に写すことはない。
 私と狛枝君は石のように固まっていた。カムクラ君は平然とした顔で鏡からペットボトルを離すと、私たち二人に向かってもう一度「ほら、帰りますよ」と言った。
 私と狛枝君は黙って顔を見合わせ、カムクラ君の命令に従って、急いでトイレを出て車に乗り込んだ。

 結局警察は呼ばなかった。誰も死んでない。僕たちは何も見てない。カムクラ君がそう言ったからだ。

 帰り道。後部座席で色々と残念そうに騒いでいた狛枝君が、いつの間にか寝ているのに気づいた後、私はそっとカムクラ君に訊いてみた。
「もしよかったら教えて? カムクラ君は、どうしてあれが狛枝君じゃないって分かったの?」
「あれってどれです」
「私たちの目の前で飛んだ、狛枝君そっくりな奴」
「ああ、あれですか」
「……顔も、服装も、体格も、絶対あれは狛枝君だったと思う。どこで見分けたのかなあ、って思ってさ」
 するとカムクラ君はハンドルを握っている自分の左手首を指差し、
「アイツの時計が、左手にしてありました」と言った。
「いつも狛枝は右手に時計をつけています。今日もそうでした」
「はあ」
「だから、おかしいと思って注意して見てみたんです。そうしたら、文字盤が逆さでした。一時二十分。それだけですよ」
 十一時四十分。一時二十分。鏡合わせ。
「そっか。だから鏡を割ったんだね」
「……ん? ああ、いえ。あれはただの鬱憤晴らしですよ。いやなモノ見たので」
「はああー……」
 私のよく知るカムクラ君は決して鬱憤晴らしなどする様な人間ではないと思うけど……、まあそれはいいとしよう。
 しかしまあカムクラ君ってば。君は一体どんな観察力してるの、と私は思う。
 普通だったら気づかない。そんなところには目もいかない。絶対に。
その証拠に、私はあいつが狛枝君じゃないと分からなかった。
「でも、本当に警察呼ばなくて良かったのかな?」と私が言うと、カムクラ君は首を横に振った。
「ボクたちは何も見なかった。狛枝は死んでません。それでいいでしょう」
 確かに、それでいいのかもしれない。カムクラ君に言われると、そんな気がしてくるから不思議だ。
 それに、きっと死体は出ない気がする。あくまで私のカンだけれど。
「それにしても。もしかすると、あのまま腕を掴み続けていたら、あなた。逆に引っ張り込まれてたかもしれませんね」
 何気ない口調でカムクラ君は恐ろしいことを言う。私は一気に背筋が凍りついた。そうだ、あの時私はとんでもない力でアイツに引っ張られていた。それをカムクラ君が私を止めてくれていたからあのままだったわけで……。もしカムクラ君が私のことを掴んでくれなかったら、もしあのままアイツの腕を掴み続けてカムクラ君が力尽きていたら。Ifを考えてはぞっとした。
「道連れ岬とはよく言ったものですね」
 そう言ってカムクラ君は大きな欠伸をした。
 後ろで狛枝君が何か意味不明な寝言を言った。私はぶるっと一回体を震わす。生きててよかった。
「……話は変わりますけど、僕、今とても眠いんですよ。もし事故って道連れになったらすみませんね」とカムクラ君が言った。
 たぶん冗談。でも私はうまく笑えなかった。
 カムクラ君の運転する車は私たちの住む町を目指して、深夜、人気のない道を少しばかり蛇行しながら走るのだった。