おんどうの中はひんやりしていた。
 実際ここで飲まず食わずでやっていけるのかと不安だったが、これなら一晩くらいは持ちそうだと思った。
 建物自体はかなり古く、壁には所々に隙間があった。といっても結構小さいものだけど。
 まだ昼時ということもあり、外の光がその隙間から入り、狛枝との顔もしっかり確認できた。顔を見合わせても何も喋ることができないという状況は、生まれて初めてだった。『大丈夫だ』という意味を込めて俺が頷くと、狛枝もも頷き返してくれた。

 しばらくすると顔を見合わせる回数も少なくなり、終いにはお互い別々の方向を向いていた。
 喋りたくても喋れないもどかしさの中、後どれくらいの時間が残っているのか見当も付かない俺達は、ただただ呆然とその場にいることしかできなかったんだ。
 途方もない時間が過ぎていると感じているのに、まだ外は明るかった。
 すると狛枝がゴソゴソと音を立て出した。何をしているのかと思い、あまり大きな音を出す前に止めさせようと思って狛枝の方に向き直ると、狛枝は手に持った紙とペンを俺達に見せた。こいつは坊さんの言うことを聞かずに、密かにペンを隠し持っていたのだ。そして紙は、板ガムの包み紙だった。まあメモ用紙なんて持っているはずない俺達なので、きっとそれしか思い浮かばなかったんだろう。
 こいつ何やってんだよ……。
 一瞬そう思った俺だが、意思の疎通ができないこの状況で極限に心細くなっていた所為もあり、狛枝の取った行動に何も言う事が出来なかった。むしろ、ひとつの光というか、上手く説明できないんだが、とにかくすごく安心したのを覚えてる。
 狛枝はまず自分で紙に文字を書き、俺に渡してきた。
『みんな大丈夫?』
 俺は狛枝からペンを受け取り、なるべく小さく、スペースを空けるようにして書き込んだ。
『俺は今のところ大丈夫、は?』
 そしてに紙とペンを一緒に手渡した。
『私も今は平気。何も見えないし聞こえない。』
 そして狛枝に紙とペンが戻った。
 こんな感じで、俺達の筆談が始まったんだ。
『ガム残り四枚。外紙と銀紙で8枚。小さく文字書こう』
『OK。夜になったらできなくなるから今のうちに喋る』
『わかった』
『今何時くらい?』
『わからん』
『五時くらい?』
『ここ来たの一時くらいだった』
『なら四時くらいか』
『まだ三時間なんだね』
『長いね』
 こんな感じで他愛もない話をして、一枚目が終わった。
 すると狛枝が書いてきた。
『日向クン文字でかい』
 俺は謝る仕草を見せた。
 すると狛枝は俺にペンを渡してきたので、『腹減った』と書き込みに渡した。そしてが何も書かずに狛枝に紙を渡した。すると狛枝は『ボクも』と書いて俺に渡してきた。
 あれだけ心細かったのに、いざ話すとなるとみんな何も出てこなかった。
 俺は日が沈む前に言っておかなければならないことを書いた。
『何があっても、最後までがんばろうな』
『うん』
『ボク、叫んだらどうしよう』
『なにか口に突っ込んどけ』
『突っ込むものなんてないよ』
『服でも脱いでおく?』
『というか、何も起きない、そう信じよう』
 は俺の書いた言葉にはノーコメントだった。俺も書いたあと、自分で何を言ってるんだろうと思った。
 坊さんは、何も起きないとは一言も言っていなかった。むしろ、これから何が起こるのかを予想しているような口ぶりで、俺達にいくつも忠告をしたんだ。そう考えると俺達は、一刻も早く時間が過ぎてくれることを願っている一方で、本当の本当は、夜を迎えるのがすごく怖かったんだ。夜だけじゃない、あの時ああしてる時間も、本当は怖くてしょうがなかった。唯一の救いが、互いの存在を目視できるということだっただけで。
 俺の一言で空気が一気に重くなった。
 俺はこの空気をどうにかしようと、の持っていた紙とペンをもらい、『何か喋れ時間もったいない』と書いて狛枝に渡した。他人任せもいいとこだ。狛枝は一瞬困惑したが、少し考えて書き出し、俺に渡してきた。
『じゃあ、帰ったら何する』
『いいな。俺はまずツタヤだな』
『なんでツタヤ?』
『DVD返すの忘れてた』
『どんだけ延泊してるの!?』
 まあ嘘だった。どうにかして気を紛らわせたかったから、なんでもいいやって適当に書いた。
 結果、雰囲気はほんの少しだが和み、狛枝ももそれぞれ帰ったら何をするかを書いた。

 少しずつだが、ゆっくりと俺達は静かな時間を過ごした。
 そして残りの紙も少なくなった頃、はある言葉を紙に書いた。
『私、坊さんに言われたことを必ず守るよ。死にたくないよ』
 俺も狛枝も、最後の言葉を見つめてた。
 俺は『死にたくない』なんて言葉、生まれてこの方本気で言ったことなんかない。きっと狛枝もそうだろう。死ぬなんて考えていなかったからだ。死を間近に感じたことがないからだ。それを今目の前で心の底から言うヤツがいる。その事実がすごく衝撃的だった。
 俺はの目をしっかりと見つめ、頷いた。
 その後は特に何も話さなかったが、不思議と孤独感はなかった。お互いの存在を感じながら、俺達は日が暮れるのを感じていた。

 何もせずにいると蝉の鳴き声がうるさくて、でも徐々に耳が慣れて気にならなくなった。
 でも、なんか違和感なんだ。よく耳を凝らすと、なにか他の音が聞こえるんだ。さらに耳を凝らすと、段々その音がクリアに聞こえるようになった。俺は考えるより先に確信した。あの呼吸音だって。
 を見た。薄暗くて分かりづらかったが、に気づいている気配はなかった。には聞こえないのか? そういえばって呼吸音について言ってたっけ? もしかしてあれは聞いたことがないのか?
 それとも単に気づいていないだけか? 頭の中で色々な考えが浮かんだ。
 すると硬直する俺の様子に気づいたが、周りをキョロキョロと見回し始めた。この状況の中で、神経が過敏にならないはずがなかった。俺の異変にすぐ気づいたんだ。
 するとの視線が一点に止まった。俺の肩越しをまっすぐ見つめていた。
 白目が一気にデカくなり、大きく見開いているのがわかった。狛枝もの様子に気が付き、の見ている方を見ていたが、何も見つけられないようだった。
 俺は怖くて振り返れなかった。
 それでも、あの呼吸音だけは耳に入ってくる。ソレがすぐそこにいることがわかった。動かず、ただそこで「ひゅーっひゅーっ」といっていた。
 しばらく硬直状態が続くと、今度は俺達のいるおんどうの周りを、ズリズリとなにか引きずるような音が聞こえ始めたんだ。狛枝はこの音が聞こえたらしく、急に俺の腕を掴んできた。
 その音はおんどうの周りをぐるぐると回り、次第に呼吸音が「きゅっ……きゅえっ……」っていう、何か得体の知れない音を挟むようになった。
 俺には音だけしか聞こえないが、ソレがゆっくりとおんどうの周りを徘徊していることは分かった。
 狛枝の腕から心臓の音が伝わってくるのを感じた。を確認する余裕がなかったが、固まってたんだと思う。全員微動だにしなかった。
 俺は恐怖から逃れるために、耳を塞いで目を瞑っていた。
 頼むから消えてくれと、心の中でずっと願っていた。

 どれくらい時間が経ったかわからない。ほんの数分だったかも知れないし、そうでないかも知れない。
 目を開けて周りを見回すと、おんどうの中は真っ暗で、ほぼ何も見えない状態だった。そしてさっきまでのあの音は消えていた。
 恐怖の波が去ったのか、それともまだ周りにいるのか、判断がつかず動けなかった。そして目の前に広がる深い闇が、また別の恐怖を連れて来たんだ。
 目を凝らすが何も見えない。『いるか?』『大丈夫か?』の掛け声さえ出せない。
 ただ狛枝はずっと俺の腕を握ってたので、そこにいるのが分かった。
 俺はこの時猛烈にが心配になった。は明らかに何かを見ていた。暗がりの中でを必死に探すが見えない。
 俺は狛枝に掴まれた腕を自分の左手に持ち直し、狛枝を連れてのいた方へソロソロと歩き出した。なるべく音を立てないように、そして狛枝を驚かせないように。暗すぎて意思の疎通ができないんだ。
誰かがパニックになったら終わりだと思った。
 どこにいるか全くわからないので、左手に狛枝の腕を持ったまま、右手を手前に伸ばして左右にゆっくり振りながら進んだ。すると指先が急に固いものに当たり、心臓がボンっと音を立てた。
手に触れたそれは、手触りから壁だということがわかった。
 おかしい、のいた方角に歩いてきたのにがいない。
 俺は焦った。さらに壁を折り返してゆっくりと進んだ。だがまた壁に行き着いた。途方に暮れて泣きそうになった。『どこだ』の一言を何度も飲み込んだ。どうしていいかわからなくなり、その場に立ち尽くしたまま狛枝の腕を強く握った。
 すると、今度は狛枝が俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出したんだ。
 まず、狛枝は壁際まで行くと、掴んだ俺の腕を壁に触らせた。そしてそのままゆっくりと壁沿いを移動し、角に着いたら進路を変えてまた壁沿いに歩く。
そうやっていくうちに、前を歩く狛枝がぱたりと止まった。そして俺の腕をぐいっと引っ張ると、何か暖かいものに触れさせた。それは小刻みに震える人の感触だった。を見つけたと思った。でもすぐ後に、これは本当になのか?という疑問が芽生えた。よく考えたら狛枝もそうだ。ずっと近くにいたが、実際俺の腕を掴んでいるのは狛枝なのか?
 俺は暗闇のせいで、完全に疑心暗鬼に陥っていた。
 俺が無言でいると、狛枝はまた俺の腕を掴み、ソロソロと歩き出した。俺はゆっくりとついていった。
 すると、ほんの僅かだが、視界に光が見えるようになった。
 不思議に思っていると、部屋にある隙間から少しだけ月の明かりが入ってきているのが目に入った。狛枝はそこへ俺達を連れて行こうとしているのだと思った。
 何故気づかなかったのか、今思っても不思議なんだ。暗闇に目が慣れるというのを聞いたことがあったけど、恐怖に呑まれてそれどころじゃなかった。ほんとに真っ暗だったんだ。
 とにかく、その時俺はその光を見て心の底から救われた気持ちになった。そして狛枝に感謝した。
 後から聞いたんだが、「ボクは見えもしなかったし、聞こえもしなかった。なんか引きずってる音は聞こえたんだけどね。でもそのおかげで、二人よりは余裕があったのかも」と言っていた。大した奴だって思った。
 光の下に来ると、狛枝の反対側の手にの腕が握られているのが見えた。
 月明かりで見えたの顔は、汗と涙でぐっしょり濡れていた。何があったのか、何を見たのか、聞くまでもなかった。
 夜は昼と違ってすごく静かで、遠くで鈴虫が鳴いていた。
 俺達はしばらくそこでじっとしていた。恥ずかしながら、三人で互いに手を取り合う格好で座った。ちょうど円陣を組む感じで。あの状態が一番安心できる形だったんだと思う。
 そして何より、例え僅かな光でも、相手の姿がそこに確認できるだけで別次元のように感じられたんだ。

 しばらくそうしていると、とうとう予想していたことが起きた。狛枝が催したのだ。生理現象だから絶対に避けられないと思っていた。
  狛枝は自分のズボンのポケットから坊さんに貰った布の袋をゴソゴソと取り出すと、立ち上がって俺達から少し離れた。静寂の中、狛枝の出す音が響き渡る。
 なんか、まぬけな音に若干気が抜けて、俺もも顔を見合わせて苦笑した。
 その瞬間だった。
ちゃん」
 一瞬にして体に緊張が走る。
 するとまた聞こえた。俺達がおんどうに入った扉のすぐ外側からだった。
ちゃん」
 俺達は声の主が誰か一瞬で分かった。今朝も聞いた美咲の声だった。
ちゃんおにぎり作ってきたよ」
 こちらの様子を伺うように、少し間を空けながら喋りかけてくる。抑揚が全くなく、機械のようなトーンだった。
 の手にぐっと力が入るのが分かった。
ちゃん」
「……」
 しばらくの沈黙の後、突然関を切ったように、
ちゃんおにぎり作ってきたよ」
「いらっしゃいませ~」
「おにぎり作ってきたよ」
ちゃん」
「いらっしゃいませ~」
「おにぎり作ってきたよ」
 と、同じ言葉を何度も何度も繰り返すようになった。
 尋常じゃないと思った。
 恐かった。美咲の声なのに、すげー恐かった。
 坊さんは、おんどうには誰も来ないと俺達に言っていた。そしてこの無機質な喋り方だ。扉の外にいるのは、絶対に美咲じゃないと思った。
 気づくと狛枝が俺達の側に戻り、俺との腕を掴んだ。力が入ってたから、こいつにも聞こえてるんだと思った。
 俺達は三人で、おんどうの扉の方を見つめたまま動けなかった。その間もその声は繰り返し続く。
「いらっしゃいませ~」
ちゃん」
「おにぎり作ってきたよ」
 そしてとうとう、扉がガタガタと音を出して揺れ始めた。
 おい、ちょ、待て。
 扉の向こうのヤツは、扉をこじ開けて入ってくるつもりなんだと思った。俺は扉が開いたらどうするかを咄嗟に考えた。全速力で逃げる、坊さんたちは本堂にいるって言ってたからそこまで逃げて……おい本堂ってどこだ、とか。もうここからどうやって逃げるかしか考えてなかった。
 やがてそいつは、ガンガンと扉に体当たりするような音を立てだした。無機質な声で喋りながら。
 そしてそのまま少しずつ、おんどうの壁に沿って左に移動し始めたんだ。一定時間そうした後にまた左に移動する。その繰り返しだった。
 何してるんだ……? 不思議に思っていると、俺はあることに気づいた。俺達のいる壁際には隙間が開いている。そしてそいつは今そこにゆっくりと向かっている。もし隙間から中が見えたら? もし中からアイツの姿が見えたら? そう考えると居ても立ってもいられなくなり、俺は二人を連れて急いで部屋の中央に移動した。
 移動している。ゆっくりと、でも確実に。
 心臓の音さえ止まれと思った。ヤツに気づかれたくない。いや、ここにいることはもう気づかれているのかもしれないけど。
 恐怖で歯がガチガチといい始めた俺は、自分の指を思いっきり噛んだ。
 そして俺は、隙間のある場所に差し掛かったそいつを見た。見えたんだ。月の光に照らされたそいつの顔を、今まで音でしか感じられなかったそいつの姿を。
 真っ黒い顔に、細長い白目だけが妙に浮き上がっていた。
 そして体当たりだと思っていたあの音は、そいつが頭を壁に打ち付けている音だと知った。そいつの顔が一瞬壁の隙間から消える。外でのけぞっているんだろう。そしてその後すぐ、ものすごい勢いで壁にぶち当たるんだ。壁にぶち当たる瞬間も白目をむき出しにしてるそいつから、俺は目が離せなくなった。
 金縛りとは違うんだ、体ブルブル動いてたし。
 ただ見たことのない光景に、目を奪われていただけなのかも知れないな。
 あの勢いで頭を壁にぶつけながら、それでも淡々と喋り続けるそいつは、完全に生きた人間とはかけ離れていた。結局、そいつは俺達が見えていなかったのか、隙間の場所でしばらく頭を打ち付けた後、さらにまた左へ左へと移動していった。
 俺の頭の中で残像が音とシンクロし、そいつが外で頭を打ち付けている姿が鮮明に想像できた。正直なところ、そいつがどれくらいそこに居たのかを俺は全く覚えていない。残像と現実の区別がつけられない状態だったんだ。
 後から聞いた話だと、そいつがいなくなって静まりかえった後、三人ともずっと黙っていたらしい。
 狛枝は警戒したから。
 は恐怖のため動けなかったから。
 そして俺は、残像の中で延長戦が繰り広げられていたから。
 それで狛枝が俺を光の場所へ連れていこうと腕を掴んだ時、体の硬直が半端なくて一瞬死んだと思ったらしい。本気で死後硬直だと思ったんだって。
 で、恐怖で歯を食いしばりすぎて歯茎から血を流してた。
 狛枝だけはやっぱり姿を見ていなかった。
 あと、そいつはそこから遠ざかって行く時、カラスのように「ア゛ーっア゛ー」と奇声を発していたらしい。その声は狛枝だけが聞いていたんだけど。そいつの二度の襲来によって、その後の俺達の緊張の糸が緩むことはなかった。ただ、神経を張り巡らせている分、体がついていかなかった。
 みんな首を項垂れて、目を合わすことは一切無かった。
 は催したものをそのまま垂れ流していたが、狛枝と俺はそれを何とも思わなかった。
 あんなに夜が長いと思ったのは生まれて初めてだ。
 憔悴しきった顔を見たのも、見せたのも、もちろん人でないものの姿を見たのも。
 何もかも鮮明に覚えていて、今も忘れられない。

 おんどうの隙間から光が差し込んできて、夜が明けたと分かっても、俺達は顔を上げられずそこに座っていた。
 雀の鳴き声も、遠くから聞こえる民家の生活音も、すべてが俺の心臓に突き刺さる。ここから出て生きていけるのか、本気でそう思ったくらいだ。
 本格的に太陽の光が中に入りこんできた頃、遠くからこっちに近づいてくる足音が聞こえた。
 俺達は完全に身構え体制に入った。
 足音はすぐ近くまで来ると、おんどうの裏へ回り入り口の前で止まった。息を呑んでいると、ガタガタっと音がし、「キィーッ」と音を立てて扉が開いた。
 そこに立っていたのは、坊さんだった。坊さんは俺達の姿を見つけると、一瞬泣きそうな顔をして、「よく、頑張ってくれました」と言った。あの時の坊さんの目は、俺一生忘れないと思う。本当に本当に優しい目だった。
 俺は不覚にも腰を抜かしていた。そして、いい年こいてわんわん泣いた。
 坊さんは、俺達の汗と尿まみれのおんどうの中に迷わず入って来て、そして俺達の肩を一人一人抱いた。その時坊さんの僧衣?から、なんか懐かしい線香の香りがして、ああ、俺達、生きてるって心の底から思った。そこでまた俺は子供のように泣いた。

 しばらくしても立ち上がれない俺を見て、坊さんはおっさんを呼んできてくれた。そして二人に肩を抱えられながら、前日に居た一軒家に向かった。
 途中、行く時に見た大きな寺の横を通ったんだが、その時俺達三人は叫び声を聞いた。低く、そして急に高くなって叫ぶ人の声だった。
 家の玄関に着くと耳元で狛枝が囁いた。
「さっきのあれ、女将さんの声じゃない?」
 まさかと思ったが、確かに女将さんの声に聞こえなくもなかった。だが俺はそれどころじゃないほど疲れていたわけで。早く家に上げて欲しかったんだが、玄関に出てきた女の人がすごく不快そうに俺達を見下しながら、「すぐお風呂入って」と言った。まあしょうがない。だって俺達有り得ないくらい臭かったから。
 そして俺達は三人仲良く風呂に入った。一人を嫌がるからの懇願だった。男女一緒だったけど誰も気にしなかった。いきなり一人になる勇気はさすがになかった。

 風呂を上がると見覚えのある座敷に通され、そこに三枚の布団が敷いてあった。『まず寝ろ』ということらしかった。
 ここは安全だという気持ちが自分の中にあったし、極限に疲れていたせいもあった。というか、理屈よりまず先に体が動いて、俺達は布団に顔を埋めてそのまま泥のように眠った。
 俺は眠りに入る中で、まったくもってどうでもいいことを思った。起きたらバイトに来なかった二人に、俺達が帰るって電話しなきゃな。旅行の準備満タンでスタンバイする二人は、俺達が今こうして死にそうな思いをしていたことを知らない。もちろん、旅行計画がオジャンになることも。
 そういえば、おんどうから出る時俺はに聞いたんだ。
、もう、見えないよな?」
 するとは確かな口調で答えた。
「うん、見えない。助かったんだよ。ありがとう」
 おれはその最後の一言を聞いて、が漏らしたことは内緒にしておいてやろうと思った。
 俺達は助かったんだ。その事実だけで十分だった。

 その後目を覚ました俺達は、事の真相を坊さんに聞かされることになる。
 そして、人間の本当の怖さと、信念の強さがもたらした怪奇的な現実を知るんだ。
 の見たもの、俺の見たもの、狛枝の聞いたもの。
 それを全て知って、俺達は再び逃げ出す決心をする。