
次の日、誰もほとんど口をきかないまま朝を迎えた。
沈黙の中、急に携帯のアラームが鳴った。いつも俺達が起きる時間だった。
の体がビクンってなって、相当怯えているのが伺えた。は根がすごく優しいヤツだから、前の晩俺に言ったんだ。
「ごめんね。私なんかより、日向君のほうが全然怖い思いしたよね。それなのに私がこんなのでごめん。助けに行けなくて本当ごめん」
俺はそれだけで本当に嬉しくて目頭が熱くなった。でもよくよく考えてみると、『私なんかより怖い思い』ってなんだ? 実際に恐怖の体験をしたのは俺だし、狛枝もも下から眺めていただけだ。もしかしてあれか? 俺の階段を駆け下りる姿がマズかったか? 普通に考えて、俺の体験談が恐ろしかったってことか?
少し考えて、俺も大概、恐怖に呑まれて相手の言葉に過敏になりすぎてると思った。こんな時だからこそ、早く帰ってみんなで残りの夏休みを楽しくゆっくり過ごそうと、そればかりを考えるようにした。
だが、その後のの怯えようは半端なかった。
俺達がたてる音一つ一つに反応したり、俺の足の傷を食い入るようにじっと見つめたり、明らかに様子がおかしかった。
狛枝も普段と違うを見て、多少びびりながらも心配したんだろう、「ねえ、大丈夫? 寝てないからちょっと疲れてるんじゃない? 少し休んだ方が良いよ」と問いかけながらの肩を掴んだ。
するとは急に「うるさいっ!!」と叫び、狛枝の腕をすごい勢いで振り払ったんだ。そしてまたガクガクと震えて怯えた。その目には涙が溜まっていた。
声を荒げることなどしないの異常な姿に、狛枝と俺は一瞬沈黙した。
「おい、どうしたんだよ?」
狛枝は急の出来事に驚いて声を出せずにいた。そしては、
「大丈夫かって? 大丈夫なわけないじゃん! 私も日向君も死ぬような思いしてるんだよ。何にもわかってないのに心配したふりしないでよっ!!」
狛枝を睨み付けながらそう叫んだ。
何を言ってるんだろうと思った。
の死ぬような思いってなんだ? 俺の話を聞いて恐怖してたわけじゃないのか?
狛枝とは特に仲が良かったんだが、その関係も狛枝がをちょっといじる感じで、どんな悪ふざけにもは笑ってたり少し注意をしたりして調子を合わせていた。だからは狛枝に声を荒げる場面なんか見たことなかったし、もちろん当の本人狛枝もそんな経験なかったんだと思う。狛枝はこれも見たことないくらいにオロオロしていた。
俺は疑問に思ったことをに問いかけた。
「死ぬ思いってなんだよ? お前ずっと下にいたろ?」
「いたよ。ずっと下から見てた」
そして少し黙ってから憔悴しきった顔を下を向けて言った。
「今も見てる」
「……」
今も? え、何を? 俺は訳がわからない。
全然わからないんだが、よくある話で、の気が狂ったんだと思った。何かに取り憑かれたんだと。
そんな思いをよそに、は震える口調で、でもしっかりと喋りだした。
「あの時、私は下にいたけど、でもずっと見てたんだ」
「上っていく俺だよな?」
「違うの……ううん、始めはそうだったんだけど。日向君が階段を上りきったくらいから、見え出したんだよ」
「……ああ」
本当はこのとき俺の心の中は、聞きたくないという気持ちが大半を占めていた。でもは、もうこれ以上一人で抱えきれないという表情で、まるで前の日の自分を見ているようだったんだ。
あのとき、俺の話を最後までちゃんと聞いてくれた狛枝と、あれで自分がどれだけ救われたかを考えると、俺には聞かなくちゃならない義務があるように思えた。
「何が、見えたんだ?」
「……」
はまた少し黙りこみ、覚悟したように言った。
「影……だと思う」
「影?」
「うん。初めは日向君の影だと思ってた。でも、日向君がしゃがみこんで残飯を食べている間にも、ずっと影は動いてたの。日向君の影が小さくなるのはちゃんと見えたし、私たちの影も足元にあった。それで、それ以外に動き回る影が……三つ……違う、四つくらいあった」
俺は全身にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。
どうかこれがの冗談であってくれと思った。しかし、今目の前にいるは、とてもじゃないが冗談を言っているように見えなかった。むしろ、冗談という言葉を口に出したとたんに殴りかかってくるんじゃないかってくらいに真剣だった。
「あそこには、俺しかいなかった」
「わかってる」
「そもそも、あのスペースに人が四、五人も入って動き回れるはずない」
あの階段は人が一人通れる位のスペースだったんだ。
「あれは人じゃない。それ位わかるでしょ」
「……」
「それに、どう考えても人じゃ無理」
はポツリと言った。
「どういうことだ?」
「全部、壁に張り付いてた」
「え?」
「蜘蛛みたいに、全部壁の横とか上に張り付いてた。それで、もぞもぞ動いてて、それで、それで……」
自分の見た光景を思い出したのか、の呼吸が荒くなる。
「落ち着け! 深呼吸しろ。な? 大丈夫だ、みんないる」
はしばらく興奮状態だったが、落ち着きを取り戻してまた話しだした。
「あれは人じゃない。いや、元から人じゃないんだけど、形も人じゃない。いや、人の形はしてるんだけど、違う」
が何を言いたいのかなんとなくわかった俺は、「人間の形をしたなにかが、壁に張り付いてたってことか?」と聞いた。は黙って頷いた。
口から飛び出そうなくらいに心臓の鼓動が激しくなった。とっさに、が見たのは影じゃないと思った。影が横や上の天井を動き回るのは不自然だ。仮にそれが影だったとしても、確実にそこに何かがいたから影ができたんだ。それくらい俺でもわかる。
ということは、俺は自分の周りで這い回る何かに気づかず、しかも腐った残飯をモリモリと食べていたってことなのか? あの音は……? あのガリガリと壁を引っかく音は、壁やドアの向こう側からじゃなくて、俺のいる側のすぐそばで鳴っていたということか? あの呼吸音も?
恐怖のあまり頭がクラクラした。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、は傍に立っていた狛枝に向き直り、
「ごめんなさい、さっき取り乱したりして。本当にごめん」と謝った。
「ううん、大丈夫……こっちこそごめんね」
狛枝もすかさず謝った。
その後なんとなく気まずい雰囲気だったが、俺は平静を保つのに必死だった。無意味に深呼吸を繰り返した。
そんな中狛枝が口を開いた。
「さんさ、さっき今も見てるっていったけど」
は狛枝が言い終わらないうちに答えた。
「ああ、ごめん。あれはちょっと、うん、錯乱してたみたい。あははっごめん、今は大丈夫だから」
そういったの笑顔は、完全に作り笑いだった。明らかに無理した笑顔で、目はどこか違うところを見ているようだった。
関係ないんだが、このとき何故かものすごい印象的だったのは、篠田の目の下がピクピクいってたことだ。こんなの何人かに一人はよくあることだよな? だけど無理して笑う人の目の下ピクピクは、結構くるものがあるぞ。
話を戻すと、狛枝と俺はそれ以上聞かなかった。臆病者だと思われても仕方ない。だけど怖くて聞けなかったんだ。
ちょっと考えてみろ、ここまで話したが敢えて何かを隠すんだぞ。絶対無理だろ。聞いたら、俺の心臓砕け散るだろ。それこそ俺が発狂する。
少しの沈黙のあと、広間のほうから美咲が朝飯の時間だと俺達を呼んだ。三人で話している間に結構な時間が過ぎていたらしい。
正直、食欲などあるはずもなく。だが不審に思われるのは嫌だったし、行くしかないと思った。
俺はのっそりと立ち上がり、二人に言った。
「なるべく早いほうがいいよな。朝飯食い終わったら言おう」
「そうだね」
「私、ご飯、いい。狛枝君さ、ノートPCもってきてたよね? ちょっと貸してくれない?」
「いいけど、ちゃんと朝ご飯食べなよ」
「ちょっと調べたいことがあるから。あんまり時間もないし、悪いけど二人でいってきて」
「了解。美咲に頼んで、おにぎり作ってもらってきてやるよ」
「うん、ありがと」
「パソコンはボクのカバンの中に入ってる。勝手に使っていいよ。ネットも繋がるから」
そう言って俺達はそのまま広間に行った。
後から考えると、辞めるその日の朝飯食うってどうなの? 他人がやってたら絶対突っ込むくせして、俺たちは普通に食べたんだが。
広間に着くと、女将さんが俺らを見て、更には俺の足元をみて、満面の笑顔で聞いてきたんだ。「おはよう、よく眠れた?」って。
そんな言葉、初日以来だったし、昨日のこともあったからすごい不気味だった。
びびった俺は直立不動になってしまったわけだが、狛枝が「はい。すみません遅れて」と返事をしながら、俺の尻をパンと叩いた。
体がスっと動いた。
ずっと人一倍びびってた狛枝に、助け舟を出してもらうとは思わなかったから、正直驚いた。そしてが体調不良のためまだ部屋で寝ていることを伝え、美咲におにぎりを作ってもらえるよう頼んだ。
「あ、いいですよ。それよりちゃん、今日は寝てたほうがいいんじゃ」
美咲は心配そうにそう言った。狛枝と俺は特に何も言わず席についた。『もう辞めるから大丈夫』とは言えないからな。
朝飯を食っている間、女将さんはずっとニコニコしながら俺を見てた。
箸が完全に止まってるんだ。俺ときどき飯、みたいな。
美咲も旦那さんもその異様な光景に気づいたのか、チラチラ俺と女将さんを見てた。狛枝は言うまでもなく凝固。
凄まじく気分の悪くなった俺達は朝飯を早々に切り上げて、女将さん達に話をするため部屋にを呼びに行った。
部屋に戻る途中、の話し声が聞こえてきた。どうやらどこかに電話をしているようだった。俺達は電話中に声をかけるわけにもいかなかったので、部屋に入り座って電話が終わるのを待った。
「はい、どうしても今日がいいんです。……はい、ありがとうございます! はい、はい、必ず伺いますのでよろしくお願いします」
そう言って電話を切った。
どうやらは、ここから帰ってすぐどこかへ行く予定を立てたらしい。
俺も狛枝も別に詮索するつもりはなかったんで何も聞かず、すぐにを連れて広間に向かった。
広間に戻ると、美咲が朝飯の片付けをしていた。女将さんはいなかった。
俺はふと思った。あそこに行ってるんじゃないか?って。
盆に飯のっけて、二階への階段に消えていったあの女将さんの後姿がフラッシュバックした。きっとあの時持って行った飯は、あの残飯の上に積み重ねてあったんだろう。そうして何日も何日も繰り返して、あの山ができたんだろうな。
一体あれは何のためなんだ?
俺の頭に疑問がよぎった。けど、そんなこと考えるまでもないとすぐに思い直した。俺は今日で辞めるんだ。ここともおさらばするんだ。すぐに忘れられる。忘れなきゃいけない。心の中で自分に言い聞かせた。
狛枝が女将さんの居場所を美咲に尋ねた。
「女将さんならきっと、お花に水やりですね。すぐ戻ってきますよ」
そう言って美咲はの方を見て、「ちゃん、すぐおにぎり作るからまっててね」と笑顔で台所に引っ込んだ。美咲は本当に良い奴だった。
俺達は女将さんが戻ってくるのを待った。
しばらくすると女将さんは戻ってきて、仕事もせずに広間に座り込む俺達を見て、「どうしたのあんたたち?」とキョトンとした顔をしながら言った。
俺は覚悟を決めて切り出した。
「女将さん、お話があるんですけど、ちょっといいですか?」
女将さんは「なんだい? 深刻な顔して」と俺達の前に座った。
「勝手を承知で言います。俺達、今日でここを辞めさせてもらいたいんです」
狛枝ともすぐ後に「お願いします」と言って頭を下げた。
女将さんは表情ひとつ変えずにしばらく黙っていた。俺はそれがすごく不気味だった。眉ひとつ動かさないんだ。まるで予想していたかのような表情で。そして沈黙の後、「そうかい。わかった、ほんとにもうしょうがない子たちだよ~」と言って笑った。
そして給料の話、引き上げる際の部屋の掃除などの話を一方的に喋り、用意ができたら声をかけるようにと俺達に言ったんだ。
拍子抜けするくらいにすんなり話が通ったことに、三人とも安堵していた。だけど、心のどこかでなんかおかしいと思う気持ちもあったはずだ。
話が決まったからには俺達は即行動した。
荷物は前の晩のうちにまとめてある。あとは部屋の掃除をするだけで良かった。バイトを始めてから、仕事が終われば近くの海で遊んだり、疲れてる日には戻ってすぐに爆睡だったんで、
部屋にいる時間はあまりなかったように思う。三人が寝泊まりした部屋といえど、元からそんなに汚れているわけでもなかった。そんなこんなで、一時間ほどの掃除をすれば部屋も大分綺麗になった。
準備ができたということで、俺達は広間に戻り女将さんたちに挨拶をすることにした。