次の日、いつもの仕事を早めに済ませ、俺と狛枝はのいる玄関先へ集合した。そして女将さんが出てくるのを待った。しばらくすると女将さんは盆に飯を載せて出てきて、二階に上がる階段のドアを開くと、奥のほうに消えていった。
 ここで説明しておくと、二階へ続く階段は玄関を出て外にある。一階の室内から二階へ行く階段は、俺達の見たところでは確認できなかった。玄関を出て壁伝いに進み角を曲がると、そこの壁にドアがある。
そこを開けると階段がある。

 とりあえずそこに消えてった女将さんは、狛枝の言ったとおり五分ほど経つと戻ってきて、お盆の上の飯は空だった。そして俺達に気づかないまま一階に入っていった。
「言った通り早いでしょ?」
「ああ、確かに早いな」
「ずっと見てたけど早いとは気が付いてなかったなあ、さすが狛枝君」
「ありがとう。……それにしても上に一体何があるんだろうね?」
「わかんない。見に行っちゃう? ちょっと怖いけど」
「それはボクもだよ」
「とりあえず行ってみるか」
 俺はそう言って、三人で二階に続く階段のドアの前に行ったんだ。
「鍵とか閉まってないの?」
 という狛枝の心配をよそに、俺がドアノブを回すとすんなり開いた。
 カチャ。
 ドアが数センチ開き、左端にいたの位置からならかろうじて中が見えるようになったとき、
「うっ」
 が顔を歪めて手で鼻をつまんだ。
「どうしたの?」
「なんか臭くない?」
 俺と狛枝にはなにもわからなかったんだが、は激しく匂いに反応していた。
「臭わないけど……。さん、大丈夫?」
 狛枝は若干ビビりながら心配そうに聞いていた。と狛枝は幼馴染だったし狛枝もちょっと心配してたんだろうな。それに対してはすごい真剣に「すごい臭うのに。二人とも臭わないの? ドアもっと開ければわかるよ」と言った。俺は意を決してドアを一気に開けた。
 モアっと暖かい空気が中から溢れ、それと同時に埃が舞った。
「この埃の匂いか?」
「あれ? 匂わなくなった」
「あはは、気のせいだったんじゃない。まあ、ボク、なにかあったら絶対日向クンを犠牲に置いてくよ。今心に決めた。さん、何かあったら一緒に逃げようね」
 と、狛枝は悪態をつく。俺は口元が引きつりながらもオイと突っ込みを入れる。
「狛枝君ホント相変わらずだよね……。……でも本当に匂ったんだよ。なんていうか、生ゴミの匂い、みたいな」
「俺達は臭わなかったし、狛枝の言う通り気のせいだろ」
 そう返したその時、俺はあることに気づいた。
 廊下がすごい狭い。人が一人通れるくらいだった。そして電気らしきものが見当たらない。外の光でかろうじて階段の突き当たりが見える。突き当たりにはもうひとつドアがあった。
「これ、上るとなるとひとりだな」
「いやいやいや、上らないでしょ」
「上らないの?」
さん、上りたいの? 行く?」
「あー、いや、そういわれると怖いけどさ」
 狛枝が苦笑した。
「結局行かないのかよ。それじゃあ、俺行ってみるよ」
「本気?」
 二人の声がダブった。
「俺こういうの、気になったら寝れないタイプだからさ。寝れなくて真夜中一人で来ると思うんだ。それ完全に死亡フラグだろ? だから、今行っとく」
 訳のわからない理由だったが、俺の好奇心を考慮すれば、今狛枝とがいるこのタイミングで確認するほうがいいと思ったんだ。
 でも、その好奇心に引けを取らずして恐怖心はあったわけで。とりあえず俺一人行くことになったが、なにか非常事態が起きた場合は、絶対に(俺を置いて)逃げたりせず、真っ先に教えてくれっていう話になったんだ。ただし、何事もないときは、急に大声を出したりするなと。もしそうしてしまったときは、命の保障はできないとも伝えた。俺の命の保障だな。

 それでソロソロと階段を上りだす俺。
 階段の中は外からの光が差し込み、薄暗い感じだった。慎重に一段ずつ階段を上り始めたが、途中から「パキっ……パキっ」と音がするようになった。何事かと思い、怖くなって後ろを振り返り、二人を確認する。二人は音に気づいていないのか、じっとこちらを見て親指を立てる。『異常なし』の意味を込めて。俺は微かに頷き、再度二階に向き直る。
 古い家によくある、床の鳴る現象だと思い込んだ。
 下の入り口からの光があまり届かないところまで上ると、好奇心と恐怖心の均衡が怪しくなってきて、今にも逃げ帰りたい気分になった。
 暗闇で目を凝らすと、突き当たりのドアの前に何かが立っている……かもしれないとか、そういう『かもしれない思考』が本領を発揮しだした。
「パキパキパキっ……」
 この音も段々激しくなり、どうも自分が何かを踏んでいる感触があった。虫か? と思った。背筋がゾクゾクした。でも何かが動いている様子はなく、暗くて確認もできなかった。
 何度振り返ったかわからないが、途中から下の二人の姿が逆光のせいか、薄暗い影に見えるようになった。ただ親指はしっかり立てていてくれた。

 そしてとうとう突き当たりに差し掛かったとき、強烈な異臭が俺の鼻を突いた。
 俺はとまったく同じ反応をした。
「うっ」
 異様に臭い。生ゴミと下水の匂いが入り混じったような感じだった。
 なんだ? なんだなんだなんだ? そう思って当たりを見回す。
 その時、俺の目に飛び込んできたのは、突き当たり踊り場の角に大量に積み重ねられた飯だった。まさにそれが異臭の元となっていて、何故気づかなかったのかってくらいに蝿が飛びかっていた。
 そして俺は半狂乱の中、もうひとつあることを発見してしまう。二階の突き当たりのドアの淵には、ベニヤ板みたいなのが無数の釘で打ち付けられていて、その上から大量のお札が貼られていたんだ。
 さらに、打ち付けた釘になんか細長いロープが巻きつけられてて、くもの巣みたいになってた。俺、正直お札を見たのは初めてだった。だからあれがお札だったと言い切れる自信もないんだが、大量のステッカーでもないだろうと思うんだ。明らかに、なにか閉じ込めてますっていう雰囲気全開だった。
 俺はそこで初めて、自分のしたことは間違いだったんだと思った。
 帰ろう。そう思って踵を返して行こうとしたとき、突然背後から「ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ」という音がしたんだ。ドアの向こう側でなにか引っかいているような音だった。
 そしてその後に、「ひゅー……ひゅっひゅー」と不規則な呼吸音が聞こえてきた。このときは本当に心臓が止まるかと思った。
 そこに誰かいるのか? 誰だ? 誰なんだ?
 あの時の俺は、ホラー映画の脇役の演技を遥かに逸脱していたんじゃないかと思う。そのまま後ろを見ずに行けばいいんだけど、あれって実際できないぞ。そのまま行く勇気もなければ、振り返る勇気もないんだ。そこに立ちすくむしかできなかった。眼球だけがキョロキョロ動いて、冷や汗で背中はビッショリだった。
 その間も「ガリガリガリガリガリガリ」「ひゅー……ひゅっひゅー」って音は続き、緊張で硬くなった俺の脚をどうにか動かそうと必死になった。
 すると背後から聞こえていた音が一瞬やんで、シンっとなったんだ。ほんとに一瞬だった。瞬きする間もなかったくらい。すぐに「バンっ!」って聞こえて、「ガリガリガリガリガリガリ」って始まった。信じられなかったんだけど、それはおれの頭の真上、天井裏聞こえてきたんだ。さっきまでドアの向こう側で鳴っていたはずなのに、ソレが一瞬で頭上に移動したんだ。
 足がブルブル震えだして、もうどうにもできないと思った。心の中で、助けてくれと何度も叫んだ。
 そんな中、本当にこれも一瞬なんだけど、視界の片隅に動くものが見えた。あのときの俺は動くものすべてが恐怖で、見ようか見まいかかなり躊躇したんだが、意を決して目をやると、それは狛枝とだった。下から何か叫びながら手招きしている。そこでやっと狛枝との声が聞こえてきた。
「日向クン! 早く降りて来て!!」
「日向君、大丈夫!?」
 この瞬間一気に体が自由になり、我に返った俺は一目散に階段を駆け下りた。
 あとで二人に聞いたんだが、俺はこの時目を瞑ったまま、一段抜かししながらものすごい勢いで降りてきたらしい。駆け下りた俺は、とにかく安全な場所に行きたくて、そのまま狛枝との横を通りすぎて部屋に走っていったそうだ。
 この辺はあまり記憶がない。恐怖の記憶で埋め尽くされてるからかな。

 部屋に戻ってしばらくすると、狛枝とが戻ってきた。
「ねえ、大丈夫?」
「なにがあったの? あそこになにかあったの?」
 答えられなかった。というか、耳にあの音たちが残っていて、思い出すのが怖かった。
 すると狛枝が慎重な面持ちで、こう聞いてきた。
「日向クン、キミ、上で何食べてたの?」
 質問の意味がわからず聞き返した。すると狛枝はとんでもないことを言い出した。
「日向クンさ、上についてすぐしゃがみこんだでしょ? ボクとさんで何してるんだろって目を凝らしてたんだけど、なにかを必死に食べてた。というより、口に詰め込んでた」
「うん……。しかもね、それ……」
 狛枝とは揃って俺の胸元を見つめる。
 なにかと思って自分の胸元を見ると、大量の汚物がくっついていた。そこから、食物の腐ったような匂いがぷんぷんして、俺は一目散にトイレに駆け込み、胃袋の中身を全部吐き出した。
 なにが起きているのかわからなかった。
 俺は上に行ってからの記憶はあるし、あの恐怖の体験も鮮明に覚えている。ただの一度もしゃがみこんでいないし、ましてやあの腐った残飯を口に入れるはずがない。それなのに、確かに俺の服には腐った残飯がこびりついていて、よく見れば手にもソレを掴んだ形跡があった。
 気が狂いそうになった。

 俺を心配して見に来た狛枝と
「何があったのか話してくれる? ちょっとキミ尋常じゃないよ」
 俺は恐怖に負けそうになりながらも、一人で抱え込むよりはいくらかましだと思い、さっき自分が階段の突き当たりで体験したことをひとつひとつ話した。
 狛枝とは、何度も頷きながら真剣に話を聞いていた。
 二人が見た俺の姿と、俺自身が体験した話が完全に食い違っていても、最後までちゃんと聞いてくれたんだ。それだけで安心感に包まれて泣きそうになった。
 少しホッとしていると、足がヒリヒリすることに気づいた。なんだ? と思って見てみると、細かい切り傷が足の裏や膝に大量にあった。不思議に思って目を凝らすと、なにやら細かいプラスチックの破片ようなものが所々に付着していることに気づいた。赤いものと、ちょっと黒みのかかった白いものがあった。
 俺がマジマジと見ていると、は「何それ?」と言ってその破片を手にとって眺めた。途端、「ひっ」と言ってそれを床に投げ出した。
 その動作につられて狛枝と俺も体がビクってなる。
「どうしたの?」
「それ、それ、よく見て」
「なに? ごめんけど言ってくれる? ボクも結構怖いんだ」
「つ、爪、じゃないの?」
 瞬間、三人共完全に固まった。
「…………」
 俺はそのとき、ものすごい恐怖のそばで、何故か冷静にさっきまでの音を思い返していた。
 ああ、あれ爪で引っかいてた音だったのか……。
 どうしてそう思ったかわからない。だけど、思い返してみれば繋がらないこともないんだ。
 階段を上るときに鳴っていた「パキパキ」っていう音も、何かを踏みつけていた感触も、床に大量に散らばった爪のせいだったんじゃないか? って。そしてその爪は、壁の向こうから必死に引っかいている何かのものなんじゃないか? って。
 きっと、膝をついて残飯を食ったとき、恐怖のせいで階段を無茶に駆け下りたとき、床に散らばる爪の破片のせいでケガをしたんだろう。
 でも、そんなことはもうどうでもいい。確かなことは、ここにはもういられないってことだった。
 俺は狛枝とに言った。
「このまま働けるはずがない」
「わかってる」
「私もそう思ってた」
 二人が頷く。俺達はみんな同じことを考えていた。
「明日、女将さんに言おう」
「言っていくの?」
「仕方ないだろ。世話になったのは事実だし、謝らなきゃいけないことだ」
「でも、今回のことで女将さんが怪しさナンバーワンだよ? もしあそこに行ったって言ったら、どんな顔するのか……、私見たくない」
「言うはずないだろ。普通にやめるんだよ」
「うん、そっちのほうがいいね」

 そんなこんなで、俺たちはその晩のうちに荷物をまとめて、あまりの恐怖のため、布団を二枚くっつけてそこに三人で無理やり寝た。めざしのように寄り添って寝た。誰一人、寝息を立てるやつはいなかったけど。
 そうして明日を迎えることになるんだ。