押し入れの中に隠れてしばらく。完全に光の遮断されたこの空間は真っ暗だ。そもそも外も電気が何処の部屋も着いていないのだから真っ暗なのもそりゃそうなのだけども。
 …………。
 存外に暇だ。普通なら入らない押し入れの中に面白いことも何もあるわけがないから当たり前なのだが、最長で二時間もここに居るのだと思うと中々な苦痛な気がする。スマホ持ってきておいて本当に良かったな……。そんな風に思い、スマホを鞄から取り出すとタイミングよくスマホが手の中で光だした。
 思わず悲鳴を上げそうになるのを必死に耐えながら、サイレント設定で音も出さず光だけを発するその画面を見てみれば、私をビビらせた原因の主はどうやら狛枝君のようだった。
「えっと……なに?」
 極力声のトーンを落として応対する。
『順調かなって』
「今隠れてるとこ」
 そう答えたら狛枝君の声が楽しそうなものに変わる。『何か起きたりした?』「何もないよ」『ふーん』他人事だと思って暢気なものだ。
『そうだ。ちゃんと準備は出来た?』
「塩水とお風呂でしょ? ちゃんと準備はしたよ」
『ならいいんだ。特に塩水は無いと困るからね。かくれんぼの終わりに使うから』
 そこで少し引っかかる。塩水はかくれんぼの終わりに使う。なら、隠れている最中も手元に塩水は必要なのではないか。だってかくれんぼなのに、わざわざ塩水を取りに行かないといけないってのはおかしいだろう。――冷や汗が頬を伝った。
「ねえ狛枝君」
『ん?』
「塩水ってずっと手元に置いておかないといけない?」
『そうだよ。終わる時には塩水を口に含んでから、ぬいぐるみに吹きかけないといけないんだ』
 私は思わず頭を抱えた。――ない。塩水はここにはない。お風呂場でぬいぐるみを刺した後、すぐにここに隠れるために逃げてきたのだ。台所に置きっぱなしの塩水を取りに行く時間が無かった。
「…………ごめん」
『……なに、その謝罪。……まさかと思うけど』
「その、まさかです。塩水、台所に置き忘れちゃったみたい……」
 通話越しに狛枝君が息を呑んだのが分かった。一拍おいて、咄嗟に叱ろうとしたのか息を大きく吸った音が聞こえたが、私がひとりかくれんぼ中だということを思い出したのか、その息は声になることは無かった。
「もしかして、これ結構やばい?」
『たぶんね。――塩水を忘れたってケースがネット上には存在してないからどうなるかは分からないけど』
「取りに行った方が良いかな」
『……ちょっと待って』
 狛枝君の声が途端に神妙なものになった。いきなり変わった空気に私も思わず息を呑んでしまう。
『変なこと聞くんだけどさ、さん、今周りに誰かいる?』
「――え?」
 スマホを持つ手が、震える。全身の毛穴という毛穴がぶわっと開いたような感覚。いきなりの不可解に私の脳が追いつかない。何。何、周りに誰かいるって。押し入れの中には私しかいないのに。
『さっきから……、……どいんだ。さんの……が、……に掻き……てるような』
「何? 狛枝君何? 何言ってるのか全然分かんないよ」
 ザ、ザザ、と不快なノイズ音が入り混じるようになる。狛枝君の声が上手く聞こえない。
『……えず、そこから出ないこと。…………てるのか、……ない。いい? 絶対だよ』
 殆ど聞こえなかったが、押し入れの中から出てはいけない事だけは分かった。私は必死に頷いて答える。聞こえてるかなんて分からないけど、そうでもしないと自分の頭がどうにかなりそうだった。
 上がりそうな息を必死に抑える。ここから出てはいけない。確かに狛枝君はそう言った。出ないということはかくれんぼの終わりを宣言しに行くことが出来ないということだが、きっとその辺りは狛枝君が何かしらのフォローを入れてくれるのだろう。そう信じたい。
 祈るようにスマホを両手で持ち、額に当てる。
 ただの都市伝説だと思ってた。でもまさか、こんな目に合うなんて。塩水さえ忘れてなければ良かったんだろうか。ほんの少し前の自分が恨めしくて仕方ない。でもどうすることもできない。
 狛枝君との通話を切ることもできなかったが、狛枝君も分かってくれているようで通話を切るなんてことは絶対にしなかった。押し入れの中という狭い世界しか今の私に許されていない現状、狛枝君との通話は心の拠り所だ。カタカタと手の震えがスマホを揺らしている。
「――!」
 その時だった。私は何かに気が付く。
『どうしたの?』
 狛枝君の慌てたような声が聞こえた。でも私は狛枝君に静かになるように促して、息を殺す。狛枝君もすぐに何も喋らなくなった。
 私も喋らず、通話越しの狛枝君も喋らない今。本来ならこの押し入れの中には、いやこの部屋の中では音を立てるものなんて一切存在しない筈だ。そう、本来なら。なのに今ちょうど、ガタン、という大きな音が鳴った。本来なら存在しない筈の音。鳴らない筈の音。――なのに、鳴るということが示しているのは。
 部屋の中に、誰かがいる。
 それしかあり得なかった。