デバッグルームの亡霊

 雨が降っている。いや違う。雨の名残が降っている。
 いつだったか、このプログラムに雨の機能を追加しようとしたことがある。でもその機能はすぐ没になって無くなってしまったのだけれど。まさかこんなところにデータが残っていたなんて知らなかった。
「そんな風に雨に打たれては風邪をひきますよ」
 黒い彼が何処からともなく姿を現す。
「引かないよ。そういうデータ無いもん」
 降り注ぐ雨の名残はその水滴を肩で跳ねさせることなく消えていく。消えたデータは服の染みになったわけでもなく、肌を伝う水滴にもならない。雨にぬれるというデータを作っていないからだ。だから音と形だけの雨はこの島に降り注いでは無に消えていくのを何度も私はこの目で見ていた。
「知っています。この状況下に似合う声掛けを行っただけです」
 無機質な声で彼は素っ気無く言う。
 彼は得た才能の代わりにすべての感情を失っているのだという。でも、その素っ気無い割には心配するような言葉をわざわざ選んで声を掛けてくれたのだから、彼も気が付かない無意識の奥底には感情が少しでも残っているんじゃないかってそう勘繰ってしまう。ただの希望的観測かもしれないけど。
「うん、まあそうだね。ここで立ち往生続けてたら体冷えちゃうし、ロビーにでも雨宿りに行こうか」
「……そういうデータは無いと先程貴方が言ったばかりではありませんか」
 カムクラ君が少しだけ首を傾げた。
「無いよ。ただ、こういう状況下ならそう言うべきなのかなって、私も乗ってみただけ。ダメだった?」
「…………酔狂な人ですね」
 長い無言の後、彼はそう言って踵を返す。行き先は多分だけどロビー。私も遅れて彼の後を追う。
 酔狂な、と彼はそう表しつつも、そう表した私を突き放すようなことはしなかった。勿論近づくこともなかったのだけれど、実際今の彼はその歩く速さを私に合わせてくれていて、絶妙な距離感で私たちの間の距離は狭まることも広まることは無い。彼の身長の高さなら歩幅も広くて私よりもきっと歩く速さだってもっと違うだろうに、これを『優しい』と評するのは私が感情を持った人間だからなのだろうか。彼からすればこの行動もなんの感情も打算も無く、当たり前のように行う一つの事柄でしかないのかな。
 目を閉じて私はカムクラ君と同じ顔の、あの日向のように優しい笑顔の彼を思い出す。きっと彼なら人を想いやって歩く速度を変えてくれただろう。そんな彼の感情の欠片が少しでもカムクラ君に残ってくれていたら良いのに。そんなことを想いながら私は雨の中彼の後を着いていくのだった。


他に誰も居ない島の中で感情があるのか分からない彼と過ごす数日間のお話。

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