海は凪ぎを待っている
規則正しい揺れと音にゆっくりと瞼を開けた。電車の中、座席の端に眠り込んでいたようだ。変な体勢で寝ていたのか首が少し痛い。これはしばらく痛むな……と右手を首に回して様子を見てはすぐに下ろす。時折聞こえるアナウンスに目的地はもうすぐだと気が付いて寝直す気も起きなかった。
そのうち、電車がぐらりと傾く。長いカーブに差し掛かった電車は車体を斜めに傾けさせて、電車内の乗客全員に遠心力を強制した。引っ張られるような感覚に近くの手摺を握って耐えていると、左肩に乗っていた重みがふと消える。
先程の大きな揺れで目を覚ましたのか、今まで左肩に頭を乗せて寝ていた幼馴染が寝ぼけ眼を擦っていた。まだ状況を把握していない頭を軽く振っては電車の外の風景を見ようとする。
「もう少しで目的地だぞ」
「みたいだね。外の風景もそんな感じだもん」
大きな欠伸をしながら幼馴染が答えた。まだ眠そうな彼女だが、やはりシンと同じく寝直すという発想はしなかったようだ。何度も何度も眠そうな目を擦っては起きていようと頑張っているようだった。
潮の匂いが少しずつ香り始める。向かいの車窓の外に広がる風景は、空の色を反射したような青が電車が進むにつれて増えていく。都心では見掛けることの無いその青を暫く見つめて、シンは今だ眠そうな幼馴染に声をかけた。
「眠いならまだ寝てていいぞ」
「もうすぐ着くんじゃないの?」
「もうすぐだけど。折角着いたのに眠くて動けませんでした、なんて勿体ないだろ。今のうちに寝とけよ」
彼女はでも……と渋ってはいたが、やはり眠気には勝てないようでその内うつらうつらとし始める。しかし、まだ意地でも起きようと踏ん張っているようだった。シンはその姿に本当に頑固だなと軽い溜息をして、持ってきていたパーカーを彼女の頭にぽいっと軽く掛ける。「わっ」と驚いた声がパーカー越しに聞こえたが無視をした。
「寝れる時に寝とけって」
「……」
「大丈夫。着いたら起こすから」
「ん……」
自分にパーカーを貸してもらうまでしてもらっては、流石に寝ないという選択肢は無くなったようで。パーカーを肩にかけて裾を握っていた幼馴染は睡魔に身を任せ、その後すぐに寝落ちたようだった。
そんなすぐに寝落ちてしまうほど眠かったのなら、意地を張らずにさっさと寝てしまえばよかったのに。まあ、そんなところで妙な意地を張ってしまうのが、コイツらしいというかなんというか。ふっと自分の口角が思わず上がってしまうのを自覚しながら、シンも電車の揺れに身を任せた。
薄らと開けた目には暗い天井だけが写る。心地よく揺れる電車も大きく広がる水平線も何もない。虚空がただ目の前にある。
背中越しに伝わる温度は冷たかった。何も羽織らない上半身。肌に直接感じるひやりとした床は固く、その冷たさは氷のようにも感じた。
傍らには誰も居ない。転輪鼓だけが物言わずひっそりと聳え立っていた。シンは体を起こして転輪鼓に凭れ掛かるように座り込む。床とまた違った冷たさと硬い感触が背中越しに伝わる。いつか感じた、あの電車の座席とは大違いだとシンは思った。
──結局、あの日は海には辿り着けなかった。
幼馴染が眠ったあの後、自分もぐっすりと眠ってしまって目的の駅を通り過ごしてしまった。目を覚ました時には、見えていたはずの青は疾うに無くなっていて。二人して寝過ごしたことに気が付いた幼馴染の、「起こすって言ったのに」と膨れてしまった彼女の機嫌を取るのはとても骨が折れた。また休みの日に行こう、次こそ海に行こうと何度も説得してようやく許してもらったことは、今だにありありと思い出すことが出来る。幼い頃のように小指を絡めて交わした約束。その約束は守られることはなかったけれど。
乾いた笑いがターミナルに響く。世界がこんなことになるのなら、約束を守ってやればよかった。だけどそんな後悔、もう意味もない。既に彼女は死んでしまった。東京がこんな形になった時に。自分の肩に寄り掛かって眠る姿も、掛けたパーカーに嬉しそうにくるまっていたあの姿も、自分と一緒に海に行きたいと誘ってくれたあの声も。全部思い出せるのに、今はもう居ない。もうどこにも。
海は、どんな色をしていたのだろうか。彼女と電車の窓越しに見ていた色はうっすらと思い出せるが、あれは本当に海だったのだろうか。あの青は海の色だったのだろうか。ボルテクス界には海が無いから、答え合わせは出来ない。──別にいい。二人で見に行けない海なんて、どんな色をしていたとしても俺には色が無いのと同じだから。だけどあの日、あの子が自分と一緒に見たいと言ってくれた海がどんな色だったのか。それだけは気になるんだ。
目を閉じる。真っ暗で何も見えなくなった。勿論、悪魔になった体に睡眠は必要ない。それでも夢想するためにシンは瞼を閉じた。あの日行くはずだった海を、隣で笑っていたはずの彼女を少しでも覚えておくために。海の色を望み、守れなかった約束を後悔し続けながら、シンは今日も夢を見る。
もし世界が元に戻るなら。その時は今度こそ二人で海に行こうか。