繋いだ手で縫い止めて

 夕暮れに照らされる豪奢な遊具たち。
 赤い日に照らされながら、決して涙を流すまいと唇を噛み締めていた君の小さい姿。
 ──あれは、いつのことだったろうか。

 日曜日の人が溢れた遊園地。鈍臭い幼馴染の手を引きながら、人混みを掻き分けて目的の遊具に進んでいた俺。後ろに伸びる俺の手は、必死に離れまいと掴む彼女のそれと繋がっている。俺が先へ先へと進めば進むほど、何度も離れそうになる幼馴染の手。その手を離さまいと手に力を入れる度に、親から言われたお小言を思い出してはムッと顔を顰めていた。
「あの子の手を離しちゃダメよ」
 何度も言い聞かせるように言われた言葉。遊園地に行きたいと強請った俺に、必ず守ることと、前置きされて耳にたこができるほど言われた。
 別にそんな小さい子供じゃあるまいし。そんな何度も言わなくても。まだ小さくて反発心が大きかった俺は、親から受ける子供扱いが気に入らなくて、思い出す度に胸がムカムカした。
 それに今俺が手を引いている幼馴染は、何度も人混みに足を取られそうになっては覚束無い。「待ってよう」と時折後ろから聞こえるそれに、神経を逆撫でされるようで、もっとイライラした。
 遊園地で遊べるのは、日が落ちるまで。それ以降は子供二人だけは危ないからと親は決して許してくれなかった。
 既に日は傾いていて、黄色く光っていたはずの太陽は、気がつけば赤色に差し掛かっている。タイムリミットは子供の目にも明らかだった。
 俺は早く行きたいのに、お前が遅いから。
 今思えば、着いていくことに必死だった幼馴染に気付かずに、先へ進もうとする俺が悪いのに、幼い俺はただ、遅い幼馴染が悪いんだと完全に決めつけて、イライラを募らせるばかりだった。なんで、俺がコイツの世話に時間を取られないといけないんだよ。
 そんな時、悪魔が俺に囁いた。

 ───この手を離してしまえばいい。
 そうすれば、俺はこんな子のことなんて気にせず遊べる。好きなところに行って、時間まで好きなだけ遊べる。
 それは子供にはとても甘い誘惑だった。目の前に垂らされた蜘蛛の糸にぐらりと子供の心はいとも簡単に傾く。今朝、親からあれほど言われたはずの『手を離すな』という約束は、最初の方だけは頭の片隅に残っていたが、直ぐにどこかに行ってしまった。
 幼馴染だってそんな小さい子供じゃない。手を繋がなくたって別に平気だろう。
 悪魔の誘惑にまんまと乗った俺は、そんなふうに自分を正当化して、ふとした時に人混みの濁流に飲まれて思わず離してしまったかのようにそっと手を離した。俺の手から離れていく小さな手。その感触が無くなっていくのは一瞬だった。

 その後は駆け出して、人混みを割り込むようにくぐり抜けて。楽しかった。離れていった幼馴染はとうに頭から消えて。乗りたかったジェットコースター。並び直せば何度だって乗れる。足を引っ張る存在が消えた時の開放感は今までの鬱屈を一瞬にして晴らした。何も気にしないでいい。全て自由だった。
 だけど、欲を出した者には蜘蛛の糸は情け容赦なくぷっつりと切れる。
 満足した俺はようやく置いて来た幼馴染を思い出して、彼女の姿を探すことにした。いくらノロノロとした幼馴染だって、流石にもう着いていると思って。しかし、その甘い考えは直ぐに断ち切られることになる。
 何処を探しても幼馴染が居ないのだ。そもそも今日は日曜日。子供よりも背の高い大人たちが多い中で、同じ背丈の子供を見つけようなんてたった七歳の子供ができるはずもない。それに、人混みの中へ飲み込まれやすい幼馴染が、どうして俺と同じくらいの速度で人混みから抜けられるだろうか。出来るはずもない。──俺と幼馴染ははぐれてしまったのだと、理解するまでに時間はかからなかった。
 はぐれてしまったなんてまだ聞こえは良い。だって元はと言えば、俺が一方的に彼女の手を振り払ったのだから。幼馴染は早く進む俺に着いて来ようと必死だった。幼馴染にはぐれる意思なんてなかった。あったのは俺だけ。親からの忠告を、幼馴染の面倒を見ることを押し付けられたと思い込んで、鬱陶しくなって離した。あの忠告は、広大な遊園地の中で一人になるなと、俺に言っていたものだったのだと、ようやくその場になって理解したのだった。

 自分が一人ぼっちだと言うことに気が付いた俺は、途端に寂しさがこみあげてきた。広い遊園地の中、どこに居るかもわからない幼馴染。身の回りに人はいっぱい居るのに、世界から一人だけ切り離されたような疎外感と孤独感。どこに行けばいいのかも分からない。七歳の子供が連絡手段を持っているはずもない。そもそもそんな発想も働かない。まさに八方塞がりな中、何をすればいいのかすら分からないまま俺は歩き始めた。
「さがさなきゃ……」
 あの子を探さないと。きっと泣いてる。寂しくって、一人が怖くて泣いてる。だから探さなきゃ。
 本当に泣きたくなっているのは自分なのに、それを誤魔化すように自分の本心を幼馴染に押し付けた。そうでもしないと自分が押しつぶされそうだった。不安でたまらなかった。
 あれだけ疲れを知らないように走っていた足はもう力が入らなかった。よろよろと来た道を戻っていく。すぐに人混みの中にぶつかった。僅かな隙間を潜り抜ける気力もない。いろんな人たちに押され、押しのけられる。すぐに揉みくちゃになって、あの子はこの中を必死に着いてきていたのかと、俺はあの子をこの中で無理矢理引き摺っていたのかと、そう気が付いて背筋が凍るような気分だった。「待ってよう」とあの子が言った時、何故少しも足を止めなかったのか。俺はスルスルと前に進んで行けたから、あの子だってできるとそう思って、でもわざとしてないんだと思った。迷惑をかけられていると思っていたのに、本当は迷惑をかけていた側だったのだ。
 どれだけ人混みに揉みくちゃにされようが、押しのけられようが、でも、幼馴染を探すことだけは諦めなかった。あれだけ一人が楽しかったのに、今はあの子が恋しくて恋しくて仕方がなかった。

 幼馴染の手をわざと放した場所。その付近で幼馴染が見つかった。夕日に照らされながら、幼馴染は俺とはぐれた場所の近くのベンチに座っていた。
 あの子を見つけられた俺は、それはもう嬉しくて。ヘトヘトの足が最後の力を振り絞るように、幼馴染に急いで駆け寄った。手を離してごめん。邪険に扱ってごめん。置いて行ってごめん。無理矢理手を引っ張ってごめん。痛かったよな。あの子に言う言葉は胸の内からいっぱい出てきた。きっと一人で泣いているだろうあの子に声を掛けてやりたかった。そして、幼馴染の傍まで駆け寄った時、俺は見た。
 幼馴染は泣いてなどいなかった。
 スカートは膝の上で何度も握りしめたのだろう小さな拳によって少し皺くちゃになっていた。いつも大きく開けられて笑い声をあげる口は、きゅっと真一文字に噛みしめられている。視線はただ一点だけを見つめて、まるで耐えるように、幼馴染は一人ベンチの上で待ち続けていた。瞳に涙を浮かべながら、しかし一筋もその雫を落とすことは許していなかった。
 そして近づいた俺に気が付いて、まるで涙なんてなかったようににっこり笑って「あ、シンだ! 見ーつけた!」と言った。そして俺に近寄ってきては申し訳なさそうに眉を下げては「はぐれちゃってごめんねえ」と笑う。
 なんでお前が謝るんだよ。馬鹿だろ。お前ははぐれたんじゃない。俺が置いて行ったんだ。そんなこと、手が離れても俺がすぐお前を探しに戻らなかったときに、気が付いただろうに。置いてかれて寂しかったとか悲しかったとか、泣き言言えばいいのに。でもしなかった。幼馴染はそんな風に思わなかったのだ。一人は寂しくて悲しくて堪らなかっただろう。でも、きっと俺が帰ってきてくれるとそう信じて待ってくれていた。どれだけ経っても帰ってこない俺を、何度も何度も拳を握りなおして、唇を噛みしめながら、涙を堪えて、ずっとあのベンチの上で座って待っていた。幼馴染はずっと耐えてくれた。だからこうやってまた会うことができた。
 ボロボロと涙が零れてきた。寂しかったのもあるけど、何より一番に自分が情けなかった。人混みの中で必死に着いてきていた幼馴染を、勝手に置いて行った俺を信じて待ち続けていた幼馴染を、何も知らずに面倒だと切り捨てた自分が情けなくってたまらない。しゃくり上げた喉が、幼馴染に謝りたいのに上手く言葉を発さない。謝る言葉を出せないままに泣いていると、幼馴染が困ったように言う。
「大丈夫? 一緒にメリーゴーランドでも行く?」
 なんでだよ。せめて二人で乗れる奴にしろよ、馬鹿。俺は思わず笑ってしまう。きっと変な顔だった。でも幼馴染も笑った。彼女が笑ってくれるならどれだけ変な顔だったとしてもいいやと思った。
 幼馴染が手を差し出す。俺は今度こそ離さないようにその手をしっかりと握った。
 

 長い眠りから目を覚ます。悪魔になってから、こんなに深く眠ったのはいつぶりだろうか。
 隣から安定した寝息が聞こえる。どうやら幼馴染は起こさずに済んだようだ。
 ──懐かしい夢を見た。
 落ち行く夕日に染まる幼馴染。沈む光を反射しながら最後まで落ちなかった涙。もう十年ほど前の話だと言うのに、あの光景だけは鮮明に思い出せた。
 体を起こして隣で眠る幼馴染の顔を見る。あの頃から少し大人びた顔の幼馴染。あの頃から俺たちはお互い成長した。あの頃の面影も少し残すままになって、昔みたいに手をつなぐことはめっきり減ってしまった。それを少し寂しいと思ってしまうのは、あの時の俺がまだ心に残っているからなのか。いや、本当は。
 規則正しい寝息を立てる彼女の頬に落ちていた髪を耳にかけてやる。頭を撫でて、彼女の眠りが少しでも良いものであるようにと願う。
 人間である彼女は、休息として一日に約数時間の眠りを必要とする。それは悪魔になってしまった自分には必要のないもので、彼女に費やす時間は無駄な時間を消費されるだけだった。無為に過ぎていく時間を一人で過ごしていると、いつも脳裏に呼びかける声がする。
 ──この手を離してしまえば良い。
 何年たっても悪魔の呼び声は俺を甘い道に引きずり落そうとする。この手を離してしまえばきっと、俺は力のままに振舞って、目に映るものすべてを打倒して、この世界の頂点を目指すことだって不可能じゃないだろう。それを思うだけで、俺の中の悪魔がなんて甘美な誘いだろうと舌なめずりをする。ただ手を離すだけ。それだけで俺は最強の存在に成れる。悪魔の唾液によって濡らされ光る蜘蛛の糸は妖艶に目の前で輝いていた。だけど、そんな声がするたびにいつも瞳の奥にチラつく風景があった。夕暮れ時の幼馴染が、俺を見ている。気が付けば夕日の中の幼馴染は成長していて、今の背丈の伸びた、大人びた顔の彼女だった。でも表情だけはあの時と変わらなくて、置いてかれて今にも泣きそうな幼馴染の顔がそこに映る。そんな彼女をどうして置いて行けるだろう。同じ過ちを二度も繰り返すことができるだろうか。
 俺は目の前の蜘蛛の糸を払って幼馴染の手を握る。暖かい、生きた人間の体温がそこにあった。彼女の手をそっと自分の額に持って行って、俺は祈るように目を閉じる。俺を人間で居させ続けてくれる暖かい彼女の手。
 俺はもう二度と君の手を離さないから。だからどうか、君も俺の手を握り続けていて。
 それだけできっと俺は救われるから。