露見された獣
何気無い掃除時間が突如終わりを告げた。
力強く殴ったような鈍い音。遅れて質量のある何かが床に崩れ落ちるような大きな音を、教室に居た全員が聞き取った。
その場に居た全員が音の方に振り向くと、床に倒れたまま微動だにしないクラスの女の子。彼女を見下ろすように顔面を蒼白にした男子と、クラスではそれなりに知れたお調子者が箒を抱えたまま微動だにしなかった。顔を青に染めた男子生徒は自分が何をしでかしたのかを理解したのかブルブルとその体を震わせているが、お調子者の方はまだ現状を理解しきれていないのか、目を白黒とさせている。
「──冗談だろ?」
暫くして、ようやくお調子者の口から零れたその言葉。女の子は床に全身を任せたままぴくりとも動かない。もう一分は過ぎたのではないだろうか。
教室には何人か人が居たというのに、誰もが怖くてその場に近寄ろうとしなかった。血こそ流れてはいなかったが、動かなくなった少女が余りにも非現実的で、誰もそれを現実だなんて認めたくなかったのかもしれない。
「俺、そんな、強くやってねえし」
手の箒を隠すように自分の背中に隠そうとするお調子者。でも箒の柄は長くて隠すにはお調子者の背には少し心許ない。彼の声は震えていた。
ようやく動けるようになったお調子者は、倒れ伏した女子に近づいて、よくあるドラマのように手首に指を付けて脈を測った。暫くしてお調子者の顔色が少しずつ戻る。どうやら脈はあったようだ。
「ほら。そんなちょっと当たったくらいで人が死ぬ訳ないだろ? みんな怖がりすぎだって! 俺、保健室とかあんまり行ったことが無いんだよ。よく分かんないし保健委員が連れて行ってくれよ」
「──知らないの? その子、間薙くんの幼馴染なんだよ」
見物人に徹していた女子生徒が声を上げた。その言葉にお調子者の顔色がサッと青に戻る。そして最初に声を上げた女子に釣られるように、見ていただけの観客達がそうだそうだと声を上げ始めた。いつも一緒に帰ってるよ。仲良さそうに話してるのよく見かけるよね。ヤジのように上がる情報に、お調子者の顔色はまた更に青く染っていく。もう誰の目から見ても痛々しいほどだ。
間薙シンという男が幼馴染のことをとても大切に扱っているというのは有名な話だった。元々はみんなが知っているような情報ではなかったが、ある時から、高尾先生のお見舞いに行ったという日から、インクの染みが紙に滲んでいくようにゆっくりと、だが確かにクラスの中に広がっていった。
ねえ知ってる? 彼の幼馴染のことを馬鹿にした子が階段から落ちたんだって。ううん違うよ、本当は用水路に落ちたって噂だよ。ホントかなあ。私はただ睨まれただけだって聞いたけど。
そんな根も葉もない噂が流れては消えていった。本当かどうかなんて誰も知らない。噂は過激な物もあれば、なんてことない物だったりした。それは噂に尾ヒレが着いてるか着かなかったかの違いだろうが、それでも流れる噂にはいつも同じ話題が必ず入っていた。それは間薙シンは幼馴染が絡むと過保護になるということ。それも病的なほどに。
そんなのただの噂話にすぎないだろうと笑い飛ばす人も最初はいたが、その内消えていった。だって、間薙シンの彼女への献身ぶりは誰の目でも明らかだったからだ。基本彼女の傍に居て、何かあれば彼女に危害が加わる前に彼が止めている。まるで彼女に傷一つつけることすら許さないようなそれに、彼らのもう一人の幼馴染である橘千晶ですら首を傾げた。突然に──元からその気はあったのかもしれないが──ここまで過保護になるなんて、そのきっかけは昔からの付き合いの彼女でも分からなかった。それは本当に突然だった。
だからその様はあんまりにも異様で。クラスの一部では、彼のその琴線に触れるようなことは絶対に犯してはならないということがタブーになっていた。眠れる獅子を起こそうとする馬鹿なんて居ないのだから。
だから、まさかそんな彼女を殴打してしまう生徒が居るなんて誰も思いもよらなかったのだ。
可哀想なくらいに顔を青くしたお調子者は、床に倒れていた少女を担ぐとすぐさま教室を出ていった。彼もその噂の幼馴染に手を出したらヤバイと知っていては居たのだろうが、残念なことに自分が殴ってしまった少女がその幼馴染であるとは知らなかったようだ。知らないままであるなら、事故だのなんだの言ってそのまま逃げ切ろうとでもしたのだろうが、如何せん相手が悪い。一人の女生徒の発言により自分がしてしまったことの重大さを理解できたのは幸か不幸か。彼も馬鹿ではない。これ以上罪を重ねるよりも少しでも鎮火できそうな方を選んだのである。
彼が出ていった少し後、チャイムが鳴った。掃除時間の終わりを告げるチャイムだ。その音を聞いて、固まっていたようなクラスの大半はようやく動き出した。殆ど教室の掃除なんて終わってなんかいなかったから大慌てで机や椅子を戻し始める。そして、何とか運び終えた頃、噂のその人が帰ってきたのである。
友達の勇と何やら談笑しながら教室に帰ってきた間薙シンの姿を見て、教室が掃除担当だった生徒たちに緊張感が走った。クラスメイトの一部が黙り込み、目配せでコンタクトを取るような姿に今帰ってきたばかりの勇でも謎に生まれた緊張感を感じとる。教室の異様な空気に「なんかヤバくないか?」とシンに漏らした勇に教室担当の生徒たちは心を一つにした。余計なことを言うな、と。
しかしそんな祈りも虚しく、シンの「そういえばアイツどこだ?」という言葉に空気が凍り付く。
掃除の後はすぐにSHRが行われる。だから教室担当の生徒たちは基本的に掃除を終わらせた後は教室から離れるなんてことはしない。無駄だからだ。だから教室担当でありながら今ここに居ない幼馴染に疑問を浮かべるシンは正しい。が、それは死刑宣告にも等しかった。
誰が言う? 誰が口火を切ることが出来る? お互いに嫌な役をアイコンタクトで押し付け合うこと数秒。クラスの気弱な女子が圧に負けてシンの方に一歩進んでいった。
「あの、ね。落ち着いて聞いてほしいんだけど」
女子が語る間、シンは何も言わなかった。表情も変えなければ、眉一つ動かさない。先ほどと何も変わらないシンの様子に生徒たちはホッと胸を撫で折ろす。噂話はやはり噂話にすぎないのだ。そう思っていた。──勇の反応を見るまでは。
シンの隣で一部始終を聞いていた勇がハッと何かに気が付いたように目を剥いた。次第に怯えた眼差しになったそれは、震えた声でシンの名前を呼んだ。
勇は近くに居たから気が付いた。シンの纏う空気がいつもより格段に冷えていることに。慌てて鎮静化を図ろうとするも、それはすでに遅し。
「──は?」
それは地を這うような低音だった。たった一言の、されど彼の今の感情を表すには十分すぎる一言。
ピンと張りつめた空気が、一瞬にして刃になって喉に突き付けられたかのようだった。一つ間違えば、一閃されて終わるだろう。そんな威圧感に名前を呼んだ勇はへっぴり腰になり、シンの目の前で説明していた女子は引き攣った声を上げて逃げ出した。教室に居た全員には部屋の温度が一気に冷え込んだ心地がした。身体が震え始めたのは体感温度のせいだろうか。
しかし当の本人はあくまで表情を変えなかった。いつも通りの落ち着いた表情で、物静かな仕草で、少し前までに床に倒れ伏していた少女の荷物をまとめ始めていた。そのアンバランスさが怖さを一層に引き立てた。いっそのこと、「なんてことをしてくれたんだ!」と怒鳴り上げてくれた方がまだ理解できた。なのに、彼は底知れない怒りを抱えたまま、その片鱗すら見せずに過ごしている。
彼が内心どれほど怒り狂っているのか、ここに居る誰もが把握できない。だからどうしようにも手立てがない。自分たちに為せることは何も無いのだという絶望感が全員を襲った。
誰もが動けない中、渦中の本人だけが動き続けていた。少女と自分のバッグの二つを持ってドアのほうへと歩いていく。その姿に、一足先に硬直状態から抜け出した勇が声を掛ける。
「あっ、おい! どこいくんだよ!」
「保健室。荷物持ってく」
「SHRはどうするんだよ、これからだぞ!」
「出る意味ない」
淡々とした会話だったのに、重苦しい圧があった。勇はヒュッと喉を鳴らした。こちらを見たシンの目が鋭く、刺すようで恐ろしかったからだ。金に一瞬きらりと輝いたように見えたのは見間違いだろうか。邪魔をするなと圧を掛けるその目が、射殺さんばかりに勇を見ている。邪魔をしてしまったその時は……、とその「もし……」を考えるだけでぞっとしない。勇は結局引き留める言葉もないまま、シンが保健室へ向かう後ろ姿を見送った。
間薙シンが去って一先ずの平穏を取り戻した教室内。しかし、彼が残した空気感は強烈で。未だシンの圧に飲まれたままの勇が憔悴しきった声で「アイツ、怒らせると本当に怖えよな……」と呟いた。教室の全員がそれに無言のまま頷いた。
明日にはきっとクラスのタブーに「間薙シンを怒らせるな」が追加されることだろう。