九百三十億光年の愛を捧ぐ
目を覚ますと白い天井だった。視界の端には今私が眠るところの周りを半分覆うかのようにカーテンがかかっている。あまり見覚えのない光景だが、すぐに此処が何処なのかを理解する。此処は保健室だ。
記憶を手繰り寄せようとしても、保健室に行くまでの経緯は全くない。そもそも今日の私は元気そのもので、というよりいつも健康体の私からすれば保健室は縁の無い所だったから、こうやって今ここに横になっているのが全く自分と結びつかなかった。何でここに居るんだろう。
体を起こせば、いつも通り痛みもなく起き上がることが出来た。手を見ても足を見ても不調は無い。じゃあ何が悪いんだというんだろうか。まさか病気だろうか。突発的に気絶しちゃうみたいな。いやいやまさか。
「──痛っ」
情報もないままに回らない頭を回していれば、突然ズキッと痛んだ。頭だ。しかも後頭部。頭の中というよりかは皮膚側? 分からないまま頭に手を回してみれば、少しだけ熱を持ってぽっこりと丸く膨らんだ何か。触ると、そこと、その周りがズキズキする。これは、たんこぶ?
「あ痛」
どうやら触りすぎたらしい。さっきまではそんなにひどく無かったのに、今ではその周辺がズキズキと痛みだした。触りすぎてしまった少し前の自分を恨みながら、手を下ろす。どうやら、それなりに大きめのたんこぶのようだ。どうやら何かの原因で私は頭を大きく打って気絶でもしていたらしい。そして心優しい誰かがここに運んでくれたんだろう。ただの憶測にすぎないが、それなりに的を射ている気がする。
しかし、どのくらい気絶していたんだろう。確か最後の記憶では掃除時間だった気がする。私は、今月は教室の担当で。掃除の用意をしてから、それで。えっと……。思い出せない。ということは、多分この辺りで何かあったんだろう。全く心当たりがないけど。
それにしても掃除時間かー。掃除時間が終わったら、その後のSHRさえ受けたら帰ることが出来るのに、寝過ごしてしまったのかと思うとなんだかちょっともったいない気持ちになる。今からすぐに帰れば良いんだけど。でもSHRを経て直ぐに帰れるのと、ちょっと他の用事のせいで遅れて帰ったりするのはなんかちょっと違うのだ。期待度というか、なんというか。よく説明が出来ないのだけど。
起きたのならそろそろ帰ろう。そもそも病人でもない自分が保健室に長居するのも良くない。
ベッドから動こうとして、シーツがこすれた音を出した時、突然バッとカーテンが開いた。誰も居ないと(居たとしても思いつくのは保健室の先生くらいだろう)思い込んでいたから、思わずぎょっとしてしまう。
カーテンを開けたのは一体誰か。大方、目覚めたのに気が付いた保健室の先生だろうとそちらを見た時、そこに居たのは。
「あ、起きた?」
知らない顔だった。
いや、知らない顔というには少し冷たすぎる。彼はクラスメイトだ。と言っても、顔と名前とちょっとした性格くらいしか知らない。あんまり話したことも無い男の子。でも彼はクラスのお調子者と言っても過言ではなくて、いつも休み時間になったら仲いい友達と一緒に騒がしく遊んでるタイプの子だ。傍目でしか見ないから、本当にそれくらいしか知らない。だから知らないと言えば知らないともいえるし、知ってるともいえるような、そんな微妙なライン。
「えっと……」
彼の名前を思い出そうとして黙ってしまうと、いきなり彼は「いやー、ごめんね。俺の箒が当たっちゃってさ」と話し始めた。怒んないでね、と軽薄そうに前置きした彼曰く、どうやら掃除時間中に友達とのチャンバラごっこで振りかぶった箒を友達に躱されて、勢いそのままにその先にしゃがんでいた私の後頭部へと振り下ろしてしまったらしい。打ち所が悪かったのか、頭を強打された私はそのまま気絶。騒然とする教室で、大慌てで微動だにしない私を保健室へ運んだと。それが事の顛末のようだ。
いやはや成程。確かに彼ならやりそうなことではある。あんまり彼のことは知らないけど、掃除時間でマトモに掃除せずに友達と遊んでいる姿なんて何度も見かけたし、実際チャンバラごっこで遊んでいるところだって見た。正義感の強い女の子や先生からよく注意されていたけど、全く聞く耳を持っていなかった。いつかは痛い目を見るんじゃないかと思っていたが、まさか運悪く私がその犠牲になるとは。というか実際に痛い目を見たのは私である。本当に不運としか言いようがない。
それにしてもだ。殆ど面識のない私を保健室まで運んでくれたのは失礼だけど少しだけ意外だった。私は彼に対して軽薄そうなイメージを抱いていたから。てっきり保健委員とかにでも任せてスタコラサッサと逃げてそうなのにと思ってしまった印象を私は払拭しないといけないかもしれない。
「ありがとう、運んでくれて」
「あー、まー、そうなんだけどさ。うん、そうだね。いや、どうも」
なんだろう。なんていうか歯切れが悪い。視線は合わないし、何かに怯えているようにも見える。
「どうしたの?」
「いや、うん、まあ、そのさあ。……間薙がさ」
間薙。その苗字を聞いて私は全てを察した。
間薙シン。私の幼馴染で、クラスメイト。あんまり自己主張をしないタイプで、少し寡黙。言ってしまえば、クラスで目立たないタイプの男の子。そんな私の幼馴染をこのクラスメイトが気にしている、いや怖がっているのは、彼が私の事になると途端に過保護になるからだ。
その過保護も、私とシンがちょっと前に巻き込まれたある事件が発端だったのだけど。いや? その前から過保護だったかもしれない。その事件が発端というよりかは、その事件を経て更に悪化したと言うべきか。まあ、どちらでも良いんだけど。シンが私に対して少々過保護ということが重要だから。
おとなしいタイプの子によくありがちだが、シンは怒ると怖い。すっごく怖い。滅茶苦茶に怖い。
普段声を荒げて怒るなんてことなんかしなさそうなのに、一度怒らせてしまったが最後、いっそ声を荒げて怒ってくれた方がまだマシだったと思うほどには怖い怒り方をする。
間薙シンを怒らせるな。それは千晶ちゃんや勇くんたちとの暗黙の了解だったのが、いつの間にかクラスメイトにもひっそり広まっていた。
ようやく納得した。──要するにだ。目の前のクラスメイトは、シンに怒られるのが怖くて私をここに運んだ訳だ。
シンは私と違って教室ではない他の場所が掃除の担当場所だ。彼としては保健委員に任せてとんずらしてしまいたかったのだろうが、あいにく教室という掃除場所は、担当する人が多い掃除場所で、多くの人目についていた。さっさと逃げていたとしても今回のことがシンの耳に入るのも時間の問題だ。それが嫌だから、此処にちゃんと運んできたんだろう。たぶん被害者が私じゃなかったら逃げてたと思う、この人。
「うん、ごめん。いや、今回は本当に俺が悪いんだけど。間薙に言っといてくれない? 特になんも問題なかったって」
思わず口を開けてしまった。クズだ。この人。
「……」
「たぶん問題ない感じでしょ? じゃあ言っといてよ。俺、間薙のこと、悪いけどちょっと苦手なんだわ」
開いた口が塞がらないとはまさにこのことである。クズの上塗りをしてるのに気が付いてないんだろうか。逆に尊敬できるかもしれない。その無神経さは。たぶんボルテクス界で生きていけると思う。……流石に冗談だけど。
「ってかさ、正直間薙って怖くない? なんつーか、普通じゃないって感じ。怖くないの? えーっと、確か、誰だっけ」
そろそろ呆れを越えて頭痛がしてきた。この人、自分が殴った女の子の名前すら覚えてないとは。一応クラスメイトなのに。呆れで声も出ない。それを何を勘違いしたのか、「やっぱ怖いよね!」とか言い出した。ダメだこの人、もう救いようがないかもしれない。
「怖くなんか……」
そう言いかけた時に、ガラリと保健室のドアが開いた。
「げっ、間薙……」
ドアを開けたのは話題のその人で。シンはギロリとクラスメイトを睨むと、クラスメイトは一瞬で顔を真っ青にして「じゃ、俺帰るから!」と足早に保健室から出ていった。いやあ、とんでもなかったなあの人。
それに対してシンは私のベッドまで歩いて来たかと思うと、その眉をへにゃりと曲げて本当に心配そうに「大丈夫か?」と聞いた。私が「平気。特に何にもないよ」と返すと、本当に心の底から安心したように顔を綻ばせて「それなら良かった」と頷いた。何にもないといったのは、本当に何にもなかったからだ。決してあのクラスメイトのために言ったわけではない。悪しからず。
「荷物、持ってきてるから」
「え、良かったのに。なんかごめん」
「良いよ別に。SHR抜け出す口実にもなったし」
あれ、まだSHRは終わってなかったんだろうか。なら意外と私が気絶していた時間というのは一瞬だったらしい。
「どうする? SHR戻る?」
「今更戻っても意味ないだろ。そのまま帰ってもいいんじゃないか?」
「じゃー、帰ろっか」
元々帰る時間が伸びたと思っていた矢先のこの朗報。SHRに出ずに少しでも早く帰れるというのならラッキーだ。
保健室の外に出れば、廊下に置かれている机の上に二人分のバッグが。それぞれ二人で持って、靴箱に二人で歩いていく。
ちょっとだけ早い時間に渡り廊下に二人。私たちだけの靴音だけが響いている。
「……なあ」
「ん?」
「俺って、怖い?」
シンが聞いた。もしかしたら、あの会話を聞いていたんだろうか。
「全然。むしろ犬っぽくてかわいい」
「犬?」
「そ。犬」
本当に分からないと言う顔をするシン。頭の上にクエスチョンマークが何個か飛んでいそうだ。「どこが?」
「えーっと。結構表情に出るとこでしょ、なんだかんだで私に従順なとこでしょ、あとねー」
「え、お前が飼い主なの?」
「違うの?」
当たり前でしょ、と返せば、シンは嫌そうに顔を顰めた。それそれ。そういうとこ。
シンは物静かだから、感情表現に乏しいと思われがちだけど、実際は素直でストレートに感情を出す。さっきなんて、クラスメイトを見た時のシンは嫌いな人を見かけた犬みたいだったし、私の無事を安心したときとかは喜びを隠しきれない犬のようだった。もしシンに尻尾でも付いていたら、はちきれんばかりに振っていたんじゃなかろうか。
納得いかないシンがむすっとしている。やっぱりわかりやすい。思わず笑ってしまう。
「でもあんな風に睨むのはやりすぎかも」気持ちはわからないことは無いけど。
「あれは、アイツが……」不服なシンが言おうとするのを抑える。「あれはちょっと怖いって思っちゃうかもね」
すると、何かを言おうとしていたシンが、きゅっと唇を結んで「ごめん」と謝った。飼い主に叱られたような子犬みたいな顔。心なしか垂れた耳が見える気がする。
それにくすくすと笑ってしまいながら、「分かればよし」と言えばシンがホッとしたような顔をする。垂れた耳が上がった。ほら、やっぱり犬っぽいでしょ? こんなかわいい人が怖いなんて、そんなわけないのにね。