コキュートスの底でまた会いましょう

 あの日からシンがおかしい。
 あの日というのは、シン達が裕子先生のお見舞いに行った日のことだ。あの日は特に何か特別な日だったとか、変わった日だったとかそんなことはなかったと思う。でも、あの病院から帰ってきたシンは今までとどこか違っていて。
 仲が良かったはずの勇くんの挨拶にあまり答えなくなったり、千晶ちゃんと話している時もどこか上の空だ。それを見る裕子先生はその様子を不思議がることはなく、かといって注意もせずただ見守るだけだった。勇くんも千晶ちゃんも何かがおかしいと気が付いている。でも、それを聞き出せないような空気が今の彼にあった。シンは確かに変わっている。
 そして私は今シンの部屋に居た。とても唐突だが、いわゆる幼馴染の特権というやつでお互いの親と親しくしているのですぐ家にあげてくれる。中学生に上がった頃からお互い気恥ずかしくなり始めてそんなことをすることはめっきりなくなったけど、今回は緊急事態なのだから許してほしい。
 おばさん──シンのお母さんのことだ──にシンの部屋に通してもらう。おばさんは久しぶりの来訪に喜んでくれて、買い物に出てしまった。「息子はそのうち帰ってくるから」と言っていた通り、部屋の中には誰もいない。部屋に入った私はぐるりとシンの部屋を見渡す。特に変わったわけでもない部屋。簡素で、ごく一般的な男の子の部屋だ。おばさんが確かに家から出て行ったあと、私は腕まくりをした。部屋探しがシンの変わった理由の特定につながるとは思えないけれど、何もしないよりかはお得だろう。
 そう思いしばらく探してみたが、本当に何も見つからなかった。やっぱり部屋を探すなんてことが間違ってたのかな。何の成果も得られなかったし、今日の所は帰ろうかと考え始めたその時だった。
 バタン。扉が開いて閉まる音。振り返って扉を確認すれば、そこには目を丸くしたシンがいた。
 「久しぶりにお邪魔してるよ」とそうやって軽く挨拶をしようと思った。思った、だけなのに。突然の痛みが私の頭を襲った。
 痛い。痛い、痛い! な、なんで?
 痛みに頭を押さえて床に蹲れば、次の衝撃が私を襲う。次は首だった。何かに押し倒される形で、私に馬乗りになった何かが容赦なく首を締めあげている。苦しい。息ができない。
 新しい空気を吸おうとするも、絞められた喉ではうまく息を吸うことができない。口の端から呻き声が漏れ出た。朦朧とする意識の中で、私に馬乗りになって首を絞める誰かを私は見た。それはこの部屋の主、シンだった。
「あ、あ、ちが、ちがうんだ、ちがう」
 そう叫びながらシンは私の首にかけた手の力を強めていく。その手の力はただの男子高校生とは思えないほど強くて、女子である私の腕力で到底引きはがせなかった。それなのに、今もなお私の首を締めているはずの手はガクガクと怯えるように震え、首を絞める本人はその目から大粒の涙を滂沱としている。
 なんという不自然さだろうか。シンは私の首を絞めているのに、まるでその行為を忌避して怯えているかのよう。そんな光景のせいなのか、私は首を絞めているはずのシンへの疑念を不思議と持てなかった。
「いやだ、俺、にげろ、おれ、もう悪魔じゃ」
 彼はもはや半狂乱になっていた。言葉を紡げないまま、殆ど単語だけを喋っている。逃げろって言ったって、今の私の首を絞めているのはシンなのに。それを分かっているのかいないのか、シンはただひたすら「いやだ」「にげろ」とうわごとのように繰り返す。
 そんな彼をもうはっきりとしない意識で見つめていると、彼の顔や腕にうっすらと緑色の線が見えた気がした。なんだろう。死を前にした幻覚かもしれない。脳に酸素がいかなくて何も考えられない。ただ、なぜかその緑色が綺麗なものだと思えたのだ。
「 」
 もう何を言ったのかさえもわからない。声に出ていたのかもわからない。でも、その言葉を聞いたシンが何かに怯えるようにパッと首から手を離した。

 解放された気道から体は酸素を取り入れようとして咽る。ぜぇぜぇと肩で息をしながらなんとか呼吸を整え部屋を見渡すと、私から一番離れた部屋の隅で小さく丸くなっていた。
「シン」
 私は近づいて声をかける。先ほどまで首を絞められていたにもかかわらず、不思議と恐怖心はない。私の声にシンの肩がびくりとはねた。おそるおそるといったようにシンが揺れる目をこちらに向ける。
「シン、大丈夫?」
 彼を安心させるようにやさしく声をかける。するとすごい勢いで手を引っ張られてバランスを崩す。また床に転がるのかと思えば、そうではなく、今度は優しい力でシンに抱きすくめられていた。
名前、ごめん、ごめん、ごめん……」
 子供のように泣きじゃくる彼に私は一瞬呆気にとられてしまうが、すぐに手を伸ばし震えている彼の頭を撫でる。大丈夫だよ、と少しでも多く伝わってくれるように何度も何度も。そのうち、彼の乱れていた息が少しずつ正常に戻ってきた。
「もう俺悪魔じゃないのに、あの時の感覚がまだ残ってるんだ、ずっと消えないんだ」
 シンはそう言って私の服を握る手を強める。その手にはもう緑色は見えない。
「このままじゃ俺、いつかお前を殺しそうで」
 それは悲痛な叫びだった。きっとこの言葉は嘘じゃない。そして本当に私はいつかシンに殺されてしまうのかもしれない。だって、さっきもシンに殺されかけていた。シンが正気を取り戻したから生きているだけで、シンが元に戻らなかったらおそらく私はあのまま死んでいた。
 何を考えてしまったのだろう、シンが再度体を震わせる。その震えは抱きすくめられている私にも強く伝わってきて、彼の恐怖が肌越しに伝わってくるようだった。
 ──そう遠くない未来、私はシンに殺されるのだろう。そしてその時は心優しい幼馴染だった彼も死ぬんだろう。私たちはたぶん一緒のタイミングで死ぬ。そう思うとなぜかそんなに怖くない気がした。二人で一緒に死ねるなら寂しくないから。
 私はシンと向き合う。濡れた瞳と目が合った。
「私、シンにならいいよ」
 殺されても。
 シンが目を見開く。その瞳孔の奥、緑色の悪魔が嗤った気がした。