恋とは、ため息と涙で出来ている

 まず最初に覚えたのは嫉妬だった。
 希望のカケラのために修学旅行メンバー全員と満遍なく親しくする彼女の姿。自分ではない他の誰かに笑いかけるその姿を見る度に、七海千秋の胸は見るたびに苦しく締め付けられた。でも、どれだけその胸が苦しくても、彼女がふと自分の姿に気が付いて微笑みかけてくれるだけで、その胸に刺さった棘は溶けるように消える。何て単純なのだろうと自分でも思った。だけど、彼女がわたしを視界に入れて、わたしのことを考えてくれる。そう考えるだけで、七海の心はいつだって軽やかに踊った。

 この感情の名前が分からないまま、取るもの手に着かず――七海の得意とするゲームでさえ操作が覚束ないものになった頃七海はこの感情の答えを得た。それは恋と呼ばれる感情だった。ある日の夜コテージにて、そわそわと、だけど嬉しそうに笑って教えてくれたウサミ。ウサミの助言でようやく自分は彼女のことが好きなのだとようやく知った。
「……ちがうよ」
「ほえ?」
 しかし、七海はこんな醜い恋があるものなのかと自分のことながら信じられない面持ちだった。七海のデータベースにある恋とは、七海が知識として知る恋とは、それこそ幾つもの物語の中ににあるような、互いを求めあいながらも、相手を尊重し思いやるような美しい恋だった。それなのに最初に覚えた思いが嫉妬だなんて、こんな相手の行動を制限したいと思うような自分勝手な思いが恋だなんて。七海にはこの感情と、知識として持つ美しい恋が同じものだとは到底思うことが出来なかったのだ。
「こんなの恋なんかじゃないよ」
「ど、どうしてそうおもうんちゅか……?」
「……だって」
 これは恋なんかじゃない。再度自分に言い聞かせるようにそう呟いた。彼女を見かけると高鳴る胸の内も、彼女の仕草に一喜一憂してしまう自分も、それら全ては確かに自分の知る恋というものと一致はしている。一致こそしているが、それでもこれを本当に恋と呼んでいいとは考えることは出来なかった。
 ――怖かった。こんな嫉妬心の塊が、あの美しい恋心たちと同等に扱われてしまうのが。この醜くちっぽけなこの想いがあれらと同じ土俵に立てるなど思えない。七海は自分の想いに自信を持てなかった。そして何よりも、現実に存在しないAIでしかない自分が、先のある彼女の未来をこの想いで奪ってしまうかもしれないのが何よりも怖かった。わたしと彼女はいずれ隔たれるのに。文字通り生きる世界が違うのだ。なのにこれを恋だと認めてしまえば、きっと抑えが効かなくなる。大好きな彼女とずっと一緒に居たいと、叶いもしない望みを持ち続けてしまう。こんなAIの身勝手な欲望に生きている彼女を縛り付けたくなどなかった。七海は初めての感情に殊更臆病だったのである。
「あちしはそうはおもいまちぇんけどねえ……」
 七海の心の内を聞いたウサミが悲しそうに俯いてそう言う。居たたまれなくなって七海はウサミから顔を逸らして手元のゲーム機を起動する。いつもなら心を躍らせてくれるはずの起動音も今の自分にはくぐもって聞こえる気がした。

 そして自分の気持ちに向き合うことができないまま訪れた修学旅行最後の日。七海は肩にかかるリュックサックの紐をぎゅっと握りしめて深く呼吸をした。息を吸うたびに島の新鮮な空気が肺へと吸い込まれていく。何度かそれを繰り返した後、意を決したように七海は紐から手を放して自分の頬を両手で軽くぺちんと叩いた。
 ようやく自分の気持ちに整理がついた。いや、今日までに整理しなければならなかった。だって七海はこの修学旅行の五十日間のように、彼女とこれから先を一緒に過ごすことはできない。もう触れ合うことができないのは寂しいけれど、彼女が生きていく未来を考えればそれが喜ばしいことなんだとそう自分に言い聞かせて。
「あのね」
 呼びかけた声は震えていなかっただろうか。「なあに?」といつも通り優しく微笑んで振り返ってくれる彼女の姿に七海は少しの安堵を覚える。しかしそれと同時にこれが最後になるのだろうという寂しさも襲い掛かってくる。その寂しさが自分を捉えてしまわないうちに七海は声を振り絞った。
「大好きだよ。ずっと、ずっとこれからも。わたし、あなたのことが大好き」
 七海は彼女と出会ってからのことを想起する。レストランで一緒に食べたご飯、お泊りして夜通しプレイしたゲーム。狭いベッドに二人でくっついて一緒に寝たこともあったっけ。彼女と過ごした思い出は一つも欠かすことが出来ない、何もかもが大切な思い出だった。
「わたしのこと、忘れないでね」そして最後に、ほんの少しだけ欲を出した。
 どれだけ望もうと、彼女と同じ未来で生きることは出来ない。だけどちょっとだけでも、これから先を生きる彼女の記憶に自分のことを留めておいてほしい。七海が彼女と過ごした記憶を何よりも大切なものだと想っているように。この先の彼女にも七海との記憶を大切な思い出の一つとして扱ってくれたら。それだけで良い。それだけ許してもらえるなら、七海はこの恋を諦めることが出来ると、そう思っていた。――なのに。
「どうして、そんなこと言うの?」
 どん、と軽い衝撃が七海の胸に走った。その衝撃の正体は彼女だった。顔を伏せた彼女が、軽く握りこぶしを作って七海の胸を叩いていた。
「酷い、酷いよ、千秋ちゃん。私だって、千秋ちゃんのこと、いっぱいいっぱい大好きなのに」しゃくりあげて、声にならない声を無理矢理言葉にしている。そういう声だった。「想いだけ告げて、それで終わりにしようとしたの?」嗚咽を零しながら、それでも伝えようと彼女は言葉を紡ぐ。
「それじゃあ、私は、この気持ちをどうすればいいのかわからなくなっちゃうよ」
 顔を上げた彼女はその目から涙を幾つも零していた。涙を流す彼女の足元はプログラムからの退去が始まっているのか、うっすらと半透明になっている。
「……嘘」
「『忘れないで』なんて、そんな寂しいこと言わないで。やだよ、千秋ちゃん。もっとこれからも、ずっと一緒に居てよ」
 それが最後の言葉だった。彼女の流した涙は地面に届くよりも先に空気の中で消えていく。
 七海は砂浜に力なく腰を落とす。砂が靴下越しの膝に食い込んだ。涙が落ちる前に退去してしまった彼女の涙は砂浜に痕を残すことすら許されなかった。
「わ、わたし、だって、あなたと離れたくなんか、なかったのに」
 そんな誰も居なくなった砂浜で、七海は生まれて初めて泣いた。
 七海の流す、いなくなってしまった彼女を想う涙は、七海が見てきたどんなものよりも綺麗で。わたしたちの恋は物語にも負けない、何よりも美しいものだったのだと、七海はようやく知った。