あなたのいる惑星をわたしは知らない
霧切は廊下に立っていた。いつもの要領で忙しく視線を動かせば、ごく一般的な学校の廊下であることが分かる。ふと体を確認すれば、自分が見慣れない制服を着ていることに気が付いた。この学校の制服なのかと霧切は思考を巡らせる。
「……?」
しかし、なんだろうか。知らない校舎、知らない制服。霧切の記憶には存在しない絵面が目の前に広がっていると言うのに、何故かこの風景がどこかしっくりと来ている自分が居る。そのアンバランスさにどこか気持ち悪さを覚えた霧切は、その気持ち悪さの正体を探ろうとして眉根を潜めてしまう。違和感を感じると直ぐに思考を走らせてしまうのは最早職業病だ。せめて学校に居る時くらいは学生らしくしたいと思うのに――そう、考えて霧切はハッとする。
――私は何故、見知らぬ学校を受け入れそうになったのだろう?
霧切が目の前に提示された疑問にまたもや思考を走らせようとしたその時、「霧切ちゃん!」と自らの名を呼ぶ誰かの声がする。その声に思考は閉ざされ、呼ばれた方へと向くと霧切の着ている制服と同じ制服を着た少女が少し慌てた様子で小走りで此方へと来ていた。
ああ、もう。そんな脇目もふらずに走っていたら、また転けてしまうわ。彼女を見た途端、そんな感想が湧き上がってくる。また転けてしまう? 可笑しい。私はこの学校を知らない。この制服も、自らに駆け寄る女子生徒も知らないはずなのだ。なのに何故かストンと胸の中に、目の前の事象が当然のことのように受け入れられている。初めて見るはずのこの光景がいつもの風景だと自分は思っている。まるで夢を見ている時のように妙な説得感が自分の中に広がっている。
霧切が上手く現状を飲み込めない中、少女は霧切の危惧した通りにつまづきそうになりながら、何とか体勢を立て直して霧切の目の前までやってきた。その一連の動作に慣れのようなものが見えて、この少女は慌ただしさ故に良く転けてしまいがちな子なのだと霧切は分析する。
「ひどいよー霧切ちゃん。次の移動教室一緒に行こうって言ったじゃない」
「そう……、だったわね」
少女が言った言葉に霧切は歯切れが悪く返す。今目の前に広がっている全てのことを霧切は分かっていない。なのに、少女に言われた途端、全てがそうであったかのように感じられたのだ。彼女が先導するように歩き、霧切も思わず彼女に着いて歩きだした。廊下に二人分の足音が鳴る。彼女と私は何処へ向かっているというのだろうか。だけどどうしてなのだろう。行先を知っている気がする。
「ね、ね。霧切ちゃん。良かったら放課後にカフェ行かない? 今月のドリンクが出たんだよね!」
「もう。貴方ったら、またなのね」
「へへ、いいじゃんいいじゃーん」
イタズラっぽく笑う少女。見慣れたその笑みに霧切は苦笑を返して承諾する。霧切がYESと答えたことに、少女の表情はみるみると明るくなり、握り拳を空に突き上げては「やったー!」と小躍りをして全身で喜びを表現しだす。あんまりに大袈裟な表現に年不相応さが感じられるが、霧切はそんな彼女の一面を好ましく思っていた。他人を疑う職に就いている霧切にとって、少女の正直な一面は眩しいほどに感じられるのだ。霧切も知らずのうちに口に微笑みをたたえている。
そろそろ霧切はこの不可思議な夢を受け入れてしまっていた。適応した、というのだろうか。この夢は霧切にとって無性にしっくりと来ていて、最早夢と現実の差異を霧切は探そうという気力は湧かなかった。この世界は暖かったのだ。ぬるま湯に沈む幸せに似た何かを霧切は感じ取り始めていた。しかしそれを他所に、この状況を冷静に考え出そうと頭の何処かが無意識に働き始めるのも霧切は分かっていた。自分の本能がこのぬるま湯に浸かるのを許さない。霧切は酷く泣きたくなる気分になる。
「……可笑しいのよ」自身の声は震えていた。
霧切の声に目の前の少女が振り向く。
「何が?」そう問いかける少女は目じりを下げて見守るかのように微笑んでいる。
霧切はもう解けてしまっていた。この夢の違和感。その答えに辿り着いた時、ぬるま湯から引き摺り出され頭から冷水を掛けられたような気分だった。感じていたはずの幸せは、何処かに消えてしまっていた。
「可笑しいのよ。見慣れない廊下も制服も全て希望ヶ峰学園のものだった。制服も校舎の間取りも公表されているから記憶に残っていても可笑しくない……。私の見る夢として出ても違和感が無いはず」
霧切の推測を少女は静かに聴いていた。
「流石霧切ちゃん。記憶の中にあった校舎と制服。ここが記憶から構成される夢なら、じゃあ、何が可笑しいのかな?」
「それは……」
犯人は一人しか居なかった。夢が形成されるのに、知っている記憶から参照されているのなら、この夢には一つだけ記憶から形成されていないものがある。あまりにも馴染みすぎているものが。
夢と呼ぶにはあまりに鮮明だ。少女の顔、少女の身振り。彼女を彩る何もかもが鮮明に目の前に映っていると言うのに。私は。
「私は、貴方が分からないのよ……。私の夢に出ている貴方は誰なの? 私は貴方を忘れているの? それとも貴方は私の妄想なの?」
霧切の問いに少女は諦めたように笑う。
「霧切ちゃん、これは夢だよ。もう覚めるからね」
そして霧切は目を覚ました。
結局、霧切には少女の正体は分からなかった。
あの暖かい学園生活の夢もコロシアイ学園生活での無意識下の抑圧されたストレスから生み出されたものだったのかと自分で推測した後、夢が現実に解けていくようにゆるりとその記憶を忘れていった。そしてあのぬるま湯の温度を霧切が思い出せなくなった頃、ヒリついた疑心暗鬼に塗れた学園生活は終わりを迎えた。世界を絶望に染め上げた黒幕の死によって、絶望の学園生活はついに終わったのだ。
霧切は学園を抜け出す前に、最後に学園の隅々を回っていた。探偵としての本能が、見落としが無いかの確認に走らせるのだ。そして、最後に着いたのが寄宿舎二階のロッカールームだった。
激しく損傷したロッカーは苗木には調べられてはいないという。黒幕が謎を解かれる為に用意したロッカールームに学園の謎を解く以上のものを用意されてはいないだろうと知りつつも一つ一つ確認していく。開かないロッカー。何も入っていないロッカー。葉隠や自分の物だと言われているロッカー。案の定、黒幕が用意したもの以上は無いのだと溜息をひとつ吐いたその時。
――カタン。
解錠された金属音と共に、開かなかったロッカーがそのドアを開いていた。思わず息を飲み、そのロッカーの中身を確認する。中は自分たちのロッカーのように、誰かの荷物がこじんまりと入っていた。だが、一つロッカーに不釣り合いなものが入っている。それは遺影だった。
遺影写真の人物は、コロシアイ学園生活参加者十八名の誰とも一致しなかった。勿論学園長でもない。けれども霧切には見覚えのある顔だった。霧切は思わず息を飲む。
遺影の人物は、あの夢の少女だったのだ。
霧切は弾かれたようにそのロッカーを確認する。しかし、こじんまりとした荷物の中に彼女を特定できるようなものはなかった。あったのは、彼女の日記と、黒幕によって落書きされた彼女のプロフィール帳だった。プロフィール帳には黒幕による落書きで彼女の名前や才能は消されており、コロシアイに参加することの無かった彼女の存在をコロシアイ学園生活自体から消しているかのように感じられる。唯一プロフィール帳からわかったのは彼女が、シェルター化計画以前に死亡したということだけ。
霧切は藁にもすがる思いで日記を開いた。でも書いてあるのは彼女の日常生活のことばかりで。だけどもそこには霧切と遊び過ごした事が事細かに、彼女自身の感情と一緒に書き記されていた。
文字を一つも見落とさないように霧切は読み進めていく。駅前のカフェに一緒に行った。分からない分野を教えて貰った。霧切の誕生日に仕事用のメモ帳をプレゼントした。何度も遊んで、そして初めて苗字でなく名前で呼んでもらえた事。ありとあらゆる普遍的な女子高生の日常が書いてあった。いくつも書き連ねて、ある日突然記入が途絶えてそれ以降が白紙のページになっていた。記入が途絶えた日付はプロフィール帳に記されていた彼女の死亡日と同一だった。
霧切は日記を閉じる。最後まで、彼女の詳細な情報は分からないままだった。コロシアイ学園生活以前に死んだ七十八期生の少女。存在しない十九人目の高校生。――私の友達。
霧切はふとあの日見た夢を思い出していた。
あの日見た夢は、きっといつかの過去に彼女と過ごしていた記憶の一部だったのだろう。存在ごと消された親友を思い出そうとする、過去の私の精一杯の反抗だったのかもしれない。だけど、その夢の中でも彼女の名前を思い出せることはなくて。挙句の果てに私は、妄想かと彼女を疑って。もう彼女を巡る記録は消えてしまったというのに。
「貴方は誰なの……」
ぬるま湯の温度を思い出せる術はもう無い。
title by 塩