奇怪なシャングリラを夢見る

 晴れた日の昼下がり。襲い来る眠気に身を任せてうとうとと意識をさまよわせる。ふわふわとした感覚の中、私は揺蕩う。起きたくない。起きてしまえば現実が待っているから。半分寝ていて半分起きているような何とも言えないこの感覚。こくりこくりと頭を揺らしていれば、隣からふふ、と柔らかい笑い声が聞こえた。その声に引き戻されるようにゆっくりと瞼を上げれば、隣の席の苗木君が微笑ましいものを見るように暖かい笑みでこちらを見ていた。
「ああごめん、さん。起こしちゃったかな」
「ううん、へいき」
 まだハッとしない頭をゆっくりと動かしながら苗木君に返す。それなら良かったと微笑む苗木君の姿を見ながら、少しずつ頭を覚醒させていく。
「私、寝ちゃってたんだね」
「ぐっすりとね。見てて気持ちいいくらいに寝てたよ」
 こんなに気持ちいい暖かさだから寝ちゃうのもわかるよ。と笑う苗木君に私はかあっと顔に熱が集まるのが分かる。ぐっすりと寝ているのを見られていたのはちょっと恥ずかしい。たとえそれが恋人である苗木君だとしても。火照った顔に早く冷めてくれと願いながら、私は立ち上がった。私が立ち上がると、苗木君も立ち上がる。どうやら私が起きるのを待っていてくれたみたいだ。そのことに気が付いて、心のどこかが暖かい何かに包まれるような気がした。
「ほら、さん。行こう」
「うん」
「王馬クンや狛枝クンがさんがまだかって待ってるみたいだし」
 苗木君はそう笑って手元の携帯を見せた。画面の中ではその二人だけではなく、複数人の連絡がそこに映し出されていた。……ああ、そうだ。今は希望ヶ峰学園の文化祭の準備中で。疲れてしまった自分が少し休みを貰ってここで眠らせてもらっていたんだ。
 どうして忘れてしまっていたんだろう。まだ頭がぼんやりとしているのかな。だってほら、今もまだ目の前の苗木君が霞んで見える。こんなにも近くにいるはずなのに。
さん大丈夫? 起きたばかりだし、まだぼんやりしてる?」
 苗木君はそう言って手を差し出す。本調子のように見えない私を心配してくれているようだ。私はその手を恐る恐る取った。暖かい。苗木君の柔らかな手のひらの感触になぜかひどく安心した。弱く握った私の手を苗木君は優しく、でも強く握り返してくれる。心にあふれる安心感がさらに増したような気がして、目頭が熱くなる。視界の中の苗木君がぐにゃりと歪んだ。
 唐突に涙を流した私に苗木君は驚いたようで、「手を握るの嫌だった?」と見当違いのことを心底不安そうに聞いて来たものだから、私は思わず吹き出してしまう。違うの。こんなにも優しくて暖かい時間がなんだかとても大切で、かけがえないもののように感じたから。おかしいよね。こんな日々は毎日続いていくはずなのに。
「なんでもないの。いこう」
 私はそう言って苗木君に微笑む。視界の中の苗木君がさらに歪んだ。
 ああ、楽しみだな。苗木君と一緒に行けば、文化祭の準備をしているみんながいて。平凡な日常だけど、それが愛おしくて。ああ、楽しみ。本当に楽しみに―。

 呼びかけられる声に重い瞼を開ける。開いたその視界に映るのは質素な電灯と、それを遮る心配そうな苗木君の顔。
「よかった……ようやく起きたんだね……」
 憔悴しきったような苗木君の顔が理解できない。体を起こそうとすればずしりと重いその体。無理に動かそうとすれば、体の節々が悲鳴を上げた。
「ダメだよ、まだ休んでないと。まだ前の戦闘の傷が治ってないんだから」
 戦闘? 何の話だろう。頭がガンガンといたい。文化祭は。希望ヶ峰学園は。何が現実で、何が幻想なのだろう。
「……狛枝、君は……」
 予想に反してかすれた声に、苗木君は顔を伏せる。
「……先ほどの戦闘でようやく保護されたよ。彼も絶望の残党である可能性が高いみたいで」
 絶望の残党。その言葉を聞いてようやく脳がクリアになる。そうだ。希望ヶ峰学園はもう滅んだ。世界も絶望に塗れて破滅へと向かった。私が見ていたあの日常は、夢だった。私が待ち望んだ文化祭も、みんながいた平凡な日常も、すべてが夢でしかなかった。
 苗木君の顔と電灯が歪む。目から零れた涙が重力によって頬へと流れていく。顔を伝って枕を濡らしていくそれを苗木君がそっと拭う。その手は柔らかくて暖かかった。
「ねえ、苗木君」
「何かな」
「……手を握ってほしいの。それだけでいいから」
 苗木君は何も言わなかった。何も言わずにそっと私の手を包み込んでくれる。弱々しく握った私の手を苗木君は強く、そして優しく握り返した。その温度が、その優しさが、夢の中の彼と全く同じだったから。私はその手に逃げ込むことしかできなかったのだ。