
夜空の下で君が幸せであったなら
キィ、と乗っていたブランコの鎖が鳴った。
シンのことを待っていた公園。いつまで待っても待ち人が来ないから、私は腰掛けたブランコをゆったりと揺らしていた。
用事が済んだらすぐ来るって言ってたくせに。一体どこで道草を食っているのやら。先生のお見舞いに行くって言っていたから、今頃鼻の下でも伸ばしているんじゃあないだろうか。先生美人だし。そう考えるとなんだか気に食わなくって、軽く足で地面を蹴れば砂がちょっとだけ跳ねた。私が動いたことによってまたキィと鎖が鳴る。蹴った砂が舞い上がっては土埃になった。それをぼんやりと見つめて土埃が落ち着けば再度軽く蹴る。そんな子供じみた遊びを何度か繰り返した後、砂を踏む音がようやく聞こえる。
「もー、遅い」
大分待たされたものだから、物音の方には振り返らずに言ってやった。きっと振り返れば申し訳なさそうに笑うシンが居るのだろう。すまなさそうな声で「ごめん」と眉を下げて笑うシンが。でも一回謝ったって許してやんない。謝罪の意を込めてアイスの一つでも奢ってくれたら許してやらないこともないな、と現金に考える。――だけど、想定していた謝罪の言葉は発せられることはなくて。もしかして赤の他人に話しかけてしまったのではないかと不安になってやっと振り返れば。
「……シン?」
それはシンなのだろうか。いや、顔も体格も私が良く見知ったシンのものだった。しかし、体中に緑色の線が、項から飛び出すように突き出た角が、何より異様な風体そのものが私の知っているシンとはかけ離れたものだった。その容貌はまるで怖い話から飛び出てきた悪魔のようだ。
「シン、なの?」
恐る恐る尋ねてもそのシンらしい何かは答えなかった。ただ虚ろな目で虚空だけを見つめている。昔から交流の合った彼が、そんな全く知らない姿を目の前に晒しているのは正に異様としか言いようが無くて、足が竦んだ。思わず握りしめたブランコの鎖が鈍い音を立てる。
その瞬間だった。目の前の誰かはハッと目を見開いたかと思うと、両手で苦しむように頭を抱えて蹲る。もがき苦しむようなそれに、ブランコから立ち上がってしまう。勢いづいて揺れるブランコが膝の裏にぶつかったが、気にせず苦しむ彼に近寄る。
彼は両手で顔を覆っていて、肩が小刻みに震えている。泣いているようだった。
「ごめん……、ごめん……」
震える唇から紡ぎ出された謝罪は一体誰に向けられたものなのか。顔を覆う掌の隙間からいくつもの大粒の涙がボタボタと地面に向かって落ちていくのが見えた。
大丈夫かとしゃがんで彼の背中に手を伸ばすと、人とは思えないような冷たい温度がそこにあった。ひやりとした感触が掌越しに伝わって一瞬放してしまいそうになるが、耐えてそのまま背中をさする。
「大丈夫、……ですか?」
良く見知った彼に似ているから、口からするりとタメ口が出ていきそうになる。しかし、相手はまったく気にしていないようで軽く首を振って気にしていない旨を伝えてくれる。そして弱々しい手が私の伸ばした手を柔らかくつかんで彼のおでこへと導かれた。その姿は何かに祈る姿のようだ。いつの間にか最初に感じた悪魔のような印象は消え失せて、無くしたものをようやく見つけた子供みたいな印象に様変わりしていた。
正直に言うと何が何だか分からない。幼馴染のことを待っていたと思えば、幼馴染に似た誰かがいきなり現れて突然泣き崩れたのだ。むしろ分かった方がすごい。
困惑したまま、なされるがままになっていると、しばらくしてからやっと彼が動いた。どうやら漸く彼は落ち着いたようでまだ目に涙こそ残っていたものの、平静は取り戻したようだ。
「……いきなりごめんな。びっくりしたと思う」
やはり何も分からず黙りこくってしまう私に、目の前の彼は「信じられないと思うけど」と前置きをして語り始めた。
似ていると思った彼は、やはりシン本人で。でも彼は世界の滅びに巻き込まれてしまった後、「人修羅」と呼ばれる半人半魔になって、滅んだあとの異世界を旅することになってしまったこと。――そして、異世界……ボルテクス界に’’先生のお見舞いに着いて行っていた私’’も巻き込まれていて、シンの不注意で’’私’’が死んでしまったということ。
「――私、死んだの?」
「俺の、せいだ。少し目を離した隙に、本当に少しだったんだ。……悪魔に襲われて、それで……」
沈んだ彼の声。到底嘘を吐いているなんて思えなくて。
私が、死んだ。死んだ。……死んだ。
何度も心の中で反芻するのに、全く頭の中に入ってこない。だって私は先生のお見舞いになんて行ってない。何よりも私はまだここに生きてて、死んだなんて言われたって何も実感がわかない。
「着いて行ってなんかない。私、お見舞いになんて着いて行ってなんかないよ」
「だから巻き込まれずに済んだのかな。……それで良かったんだよ」シンは目を伏せる。
「ずっと一緒に居てくれたんだ。一緒に帰ろうって二人で約束して……。そんなお前が死んで、もう全てがどうでもよくなった。世界を元に戻すのも、コトワリも何もかもどうでもよくなって……。それで、俺は」
シンは口を噤んだ。
シンは握った私の手を優しくそっと離して、そのくせ名残惜しそうに目を細めて笑った。
「何もかも捨てた俺に、最期にこんな奇跡をくれるなんて、神様って残酷だよな」
「シン?」
「俺が俺で居られる最期に会えてよかった」
その時、いきなり突風が吹いて、私がお遊びで起こしていた土埃とは全く違う大きなうねりがシンを飲み込んだ。それは一瞬の出来事で、私が上げた「シン!」という悲鳴も伸ばした手も全て風に飲まれてしまった。
最後に見えたのは、土埃からなる竜巻の隙間から見えた、シンの心の底から嬉しそうな悲しい笑顔だった。
「幸せに」
シンが竜巻に消えた後、そこは何も残らなかった。あれだけ強い風だったのに、何事もなかったように舞っていた土埃はもう消えていたし、ブランコに至っては強風が無かったように静止していた。
まるで夢でも見ていたかのようだ。夢だったのかもしれない。違う。夢であって欲しかった。
私が死んだなんてやっぱり信じられないし、悲惨な目に合っていたシンが報われないなんてそんなこと現実にあってほしくなんかなかった。
だけど、先程まで私の手を握っていた体温が低いあの手の感触も、今まで見たことないあんな悲しく笑う顔も、最期に残した彼の言葉も、全て私の五感を通してまだ残っていた。
キィ、とブランコが音をたてた。風だ。そして砂を踏みしめる音。見るまでもない。シンだ。この世界の。
「ごめん、遅くなった」
その肌に緑の線は無い。項から生える角もない。普通の人間のシンがそこにいる。
「ねえ、シン」シンが首を傾げた。
「私ね。人修羅に会ったよ」
シンの目が大きく開かれる。「お前、どうして」
「人修羅がね、教えてくれたんだ。私、お見舞いに着いて行ってたら死んでたんだって。……目を離した隙に、’’私’’は死んだんだって。……’’私’’がお見舞いに行ったから、あの’’シン’’は……」
「お前はお見舞いに行ってない」
重ねるようにシンが言葉を吐いた。「だから死んでない」
「うん……。そうだね」
だからなのだろうか。シンが人間に戻ったのは。
’’私がお見舞いに着いて行った’’世界のシンは全てを捨てて悪魔に至った。
’’私がお見舞いに着いて行かなかった’’世界のシンは悪魔に堕ちず、人間として元の世界に戻ることを諦めなかった。
真反対な彼の結末。その彼の結末を決めたのは、私の行動だった。着いていくか、行かないか。私が彼の分岐点だった。
’’先生のお見舞いに付いて行った私’’は、きっと何気なく着いて行ったんだろう。その私の何気ない行動が、シンの幸せを知らないうちに奪った。そして、幸せを奪われたシンは悪魔に堕ちるのだ。
「幸せに、って言われた」
「恨めばよかったのに。お前が着いてきたせいでこんな目に遭ったんだって、憎んでしまえばよかったのに」
酷い皮肉だ。自分の幸せを奪った相手の幸福を願うなんて。
「あのな」シンがようやく歩みを進めた。一歩一歩、私に近づくシン。
「きっと’’俺’’は一緒に居てくれただけで嬉しかったんだ。だから守りたかったんだ。でも守り切れなかった。だから絶望した」
シンは私の目の前に立って向き合う。少し高い目線が私を捉えた。
「’’俺’’が一番恨んだのは自分自身だ。死ぬ間際まで一緒に居てくれた’’お前’’を守れなくて、耐えられなかった。’’俺’’は自分自身を憎んだかもしれないけど、’’お前’’を憎むことなんてないよ。俺だってそうする」
「なあ」
「幸せにって言われたんだろ。俺はここに居て、お前は生きてる。それでいいんだよ。幸せになってくれたらそれで。’’俺’’もようやく報われるんだ。だからさ、」
シンの手が私の手を握る。
「一緒に帰ろう」
私は頷く。’’私たち’’が望んで、叶わなかったこと。
そっとシンの手を握り返す。それは体温のある暖かい手だった。