
きみのための柔らかいねむり
私はターミナルでいつもシンの帰りを待っている。
悪魔の蔓延る世界。人間の持つマガツヒを狙う悪魔が至るところでエンカウントするこのボルテクス界では、安全なところは本当に一握りしかない。その限られたセーフポイントの一つがこの世界に点在するターミナルだった。
私と一緒に生き残ったシンは私に対して庇護欲求が強くなってしまったのか、自身が帰ってくるまではこのターミナルから離れるなといつも口を酸っぱくしては外へ出ていく。
最初の頃はあまりにも退屈で、ほんの少しの探求心と悪戯心から外に出てみたけど、自己防衛手段が無い私はすぐに悪魔に見つかって襲われてしまった。間一髪というところで偶然帰ってきたシンに助けられたが、もし彼があのタイミングで帰ってこなかったらと思うと背筋が凍るような気分だ。血まみれで横たわっていた私を見つめる、シンの縋りつくような瞳と心を蝕まれるような絶叫はまだ私の記憶にこびりついている。それ以来、私はちゃんと彼の言う事を聞いてターミナルでこじんまりと彼の帰りを待つようになった。
しかし、時間の概念がほぼなくなったと言えど、ターミナルの中で彼の長い旅の終わりを待つのはそれなりに苦痛で。最初は一人遊びやら好きだった歌を歌って過ごしていたが、すぐにそれも尽きてしまった。もうすることが無くなってしまった私に残されていた暇を潰すための選択肢は眠ることしかなく、ひんやりとした床に寝転んでは寝ては起き、寝ては起きてを繰り返して、そのうち帰ってきた彼に起こされるのが常となっていた。寝すぎて頭が痛くなったり、関節が痛むようになったが、シンが帰ってくるまでの辛抱だからと、何度も祈りながら眠りに着くことがもはや当たり前になっていた。
そんな生活を送っていたある時。元居た世界の時間間隔なら一日の九割近くを寝て過ごせるくらいには体が慣れてしまっていた頃。いつも通り硬い床に眠りこけていた私にまるで何かに轢かれたんじゃないかというほどの衝撃が襲った。
思わずかわいくない悲鳴を上げて目を覚ます私。寝ぼけた頭が敵襲なのかと、ここは安全なのではなかったのかと警鐘を鳴らすも、衝撃は最初の一度きりで、追撃も何もなかったことから私の頭は殺意の高い悪魔による仕業ではないとすぐに答えを弾き出していた。なんか締め付けられているような気がするが。
この世界での人間の価値は、悪魔の欲するマガツヒというエネルギーの供給源となれることだ。人を苦しめれば苦しませるほど質の良いそれは生み出される。だから昔の私は死ぬか生きるかの瀬戸際で滅茶苦茶に痛みを与え続けられていたのだけれど――、しかし今回の襲撃者は最初の一撃だけだった。マガツヒを定期的に求める悪魔としては不釣り合いな行動だ。
じゃあ誰なのか。自分を襲ったものの正体なんて見るのも怖かったが、知らなければ対策も取れない。恐る恐る目を凝らしてみれば……。
「シン?」
それは私に抱き着いていた幼馴染の姿だった。
すぐさま私の頭はクエスチョンマークで埋め尽くされることになった。
何でシンが? 何で抱き着いてるの? というか今どういう状況?
疑問だらけで頭がパンク寸前の私を他所に、犯人はぎゅうぎゅうと抱き着く力を強めている。ちょっと苦しい。彼の肩を軽くぺしぺし叩いてみても全く反応は無い。むしろ力を強めてくるばかりか、私の胸元に沈めた頭をぐりぐりと埋めてくる。それはセクハラに該当すると思うんですが。だがしかし、ボルテクス界には咎める警察が居ないどころか、法そのものが無い。無念である。
「あのー。シン? シンさーん?」
「……」
返事はない。更に混乱の続く私に、シンは離れる気配もない。
私と彼は幼馴染だったから、まだ小さかった頃は異性ということを気にすることもなく手をつないだり抱き着いてみたりなんてしていたが、今はもうお互いに分別のつく年齢だ。恋人でもないのに、こんな風に抱き着くのは恥ずかしいし、失礼に当たるなんてこと、普段のシンなら知っている筈なのに本当にどうしたんだろうか。
正直なところ。今、とっても辛い。
突然の話だが、私は間薙シンという異性に恋をしている。幼馴染として一緒に過ごしてきたシン。そんな彼と長い時間を一緒に育ってきて、私の心にはほんのりとした恋心が芽生えていた。
幼馴染という欲目を抜いても、間薙シンという男の顔は整っている方だと思う。勿論顔だけじゃなくて、少し寡黙でありながら面倒見が良くて、いつも優しい彼のことを、幼馴染という枠を超え、知らず知らずのうちに目で追うようになっていた。幼馴染からちょっと気になる男の子へ。これを恋と呼んでもいいのか、まだ悩んでいた頃に起きたこの東京受胎。目に見える全てが敵になりかねない状況下で、ちょっと気になっていた男の子が自分のことを守ろうと躍起になる姿を見てどうして好きにならないだろう。
そんなこんなで間薙シンという男への恋心に完全に落ちてしまった私は、その恋を悟られないように、彼と一緒に過ごしてきていたのだけれど。その矢先のこれだ。恋の神様はよほど悪戯が好きらしい。
当然、好きな人に抱きしめられて舞い上がらない女の子なんていないのである。その真意がどうであろうと、どうしても最初は舞い上がってしまう。
体なんて正直で、鼓動を速めた心臓が体中に音を響かせているかのようだ。今、胸元に顔を埋めている彼に聞こえていたらどうしようなんて、そんな風に考え始めたその時。
「心臓の音、すごいな」
今まで沈黙を貫いていたシンがそう言った。
ですよね、わかりますよね。だって胸元に顔、埋めていますもんね。聞こえないわけがないですよね。
バレていたことへの羞恥と、好きな人に抱き着いてもらえていることへの喜びとで顔を真っ赤にさせてしまう。嬉しさと恥ずかしさで死んでしまいそうだ。今なんて、心臓が破裂しそうな勢いで動いているというのに。
それなのに、この男は心の底から嬉しそうにふにゃりと笑って。「顔も真っ赤だ」とか、「もしかして、俺のせい?」なんて言ってくるのだからタチが悪い。ええ、そうですよ。まさしくあなたのせいです。あなたのせいで私の情緒が酷く乱されているんです。
でも、そんな彼を押しのけるのも糾弾もできないのは惚れた弱みというものなのか。なんだかんだでこの状況下を嬉しいと思ってしまっている私のせいなのか。おそるおそる私の手を彼の背中に回すと、私を抱きしめる力がさらに強まった。
ふと、シンの声が私の耳を擽る。
――シンが、私の名前を何度も呼んでいた。
「……好きだ。好きだ。ずっと好きだ」
うわ言のように呟くそれに私は硬直してしまう。しかし、彼のその後の言葉にハッと目を見開いた。
「居なくならないでくれ……」
祈るようなその言葉に、私は聞き覚えがあった。それは、私が少し前、シンの言いつけを破って外に出てしまったあの時のこと。傷だらけになって、息をするたびに痛む肺で、ヒューヒュー音のする喉で、無理矢理息をしていたあの時。
寡黙な彼が、いつも冷静なシンが、その顔をぐしゃぐしゃに歪ませて泣いていた。意識が薄れゆく私を呼び止めるように、今まで聞いたことが無いような悲痛な声で、私の名前をただひたすらに呼んでいた。
『――おいっ、嘘だ、嘘だこんなのっ、いやだ、居なくならないでくれ!』
歪む視界の端で、シンが震わせた声を上げて泣いていた。自分だって悪魔を追い払って傷だらけのくせに、ありったけの道具を私に全て使って、私の命をなんとかしてつなぎとめようとしていた。悪いのはシンの言いつけを守らなかった私で、自業自得だったのに。そんな私が一命を取り留めたと分かった瞬間、怒るでもなく彼が取った行動は、あらん限りの力で私を抱きしめて、良かった本当に良かったと泣き崩れたことだった。
その時のことだ。私がシンのことが好きだと、彼の信頼をもう裏切りたくないとそう心に誓ったのは。
彼の背中に回していた片方の手をそっと上げて彼の頭を撫でる。あの時の後遺症で動かすのに痛みが走ったが気にせず続けた。
「大丈夫。シンが望むならいなくなったりしないよ」
ゆっくりゆっくりと。私の手だと本当にノロノロとしか彼の頭を撫でることが出来なかったが、彼はそれを拒まなかった。むしろそれに身を任せるように目を閉じる。
「私、ここでずっとシンのこと待ってる。嫌だって言ったって一緒に居てやるんだから」
シンは、外の世界で何を見てきたのだろう。私は外の世界では生きていけないから、全く外の世界のことを知らない。シンも私を悲しませたくないのか、悪い情報は一切流さない。でも、途中から千晶ちゃんや勇くんの話をぱったりと聞かなくなったから、そう言う事なんだと思う。
だからせめて、私だけでも彼を癒せる場所になるように。ゆっくりと彼の頭を撫で続ける。
「そうか。良かった……」
安心したような声で、彼はそう言って。そして少し後にすうすうと規則正しい寝息が聞こえた。
私の事をしっかりと抱きしめたまま。ちょっぴり擽ったいけどそれはご愛嬌だ。
「おやすみ。シン」
私もまた瞼を閉じる。眠り慣れている私はすぐに眠気が襲ってくる。ああ、今日もいい夢が見れますように。そして、シンにも温かい夢が見れますように。
後日。実は帰ってきたあの時、戦闘中に受けた魅了の残滓でシンが素直な甘えん坊のようになっていたらしいことが発覚し、全ての記憶をちゃんと持っていたらしいシンが顔を真っ赤にして再度告白してくれることになるのだが、それはまた別のお話。