
私を化石にするひと
マガツヒというものは、人間を苦しませると上質なものができるらしい。
マガツヒ。それは悪魔にとってのエネルギー。人間やマネカタを苦しませることで、上質なものを得ることができる。だから、カブキチョウの捕囚所にはマガツヒを得るために日々拷問されるマネカタたちがいた。人間に似た姿をした彼らが拷問されて憔悴していた様は思い出すだけでも気分が悪くなる。悪魔にとってそれが力強く生きていくための必要なことであると分かって居ても、それは納得するには難しかった。
でも、今なら少しだけ納得してまいそうになる。
私は人間だ。
シンジュク病院に居て、偶然生き残った人間。シンと千晶ちゃんと幼馴染だった、普通の人間。
シンみたいに半人半魔にならず、千晶ちゃんのように力を求めるような道にも進まなかった、本当になんの変哲もない平凡な人間だ。
そんな人間が、悪魔の蔓延るボルテクス界で生き残れているのは、シンが私のことを守っていてくれるからだ。
庇い、時に傷付き、地に膝を付けることになっても、シンは私のことを守ることだけは諦めなかった。私に傷一つ付けることを許さないように、自分が傷だらけになってもシンは絶対に私のことを守り抜いていた。
私は普通の人間だ。力も無い、創成したいコトワリすら持たない、何も無い人間。
いっそのこと、シンのように悪魔になってしまえたらと悩むこともあった。どうして私は人間なのだろう。どうしてこんなにも守ってくれるシンに、私は何も返せないのだろう。
一度だけ、シンにその悩みを打ち明けたことがある。私の存在が疎ましくないかと。その時、シンは見たことないくらい怖い顔をして、緑色の線の入った両手で私の肩を掴んで、「そんなことない」と否定した。
私の肩を食い込む程に力強く掴んでいたシンの手。怒ったように顔を歪ませて否定するシンの言葉に嘘はなかった。彼は、本気で私のことを疎ましくなんて思っていなかった。
私はそれを嬉しいと思ってしまった。そして同時に同じくらい嫌になった。
シンが本気で自分のことを大切に思っていてくれていると知った嬉しさが、仄暗い喜びが体全体を満たしていくのが、嫌で嫌で体を掻き毟りたくなるような自己嫌悪に苛まれた。
私は浅ましい人間だった。シンに大切に思われて嬉しいはずなのに、それだけ大切に思われるような価値が自分に見いだせなかったのだ。
私は人間だ。何の力も無い、コトワリも紡がない、ただの人間。このボルテクス界に生き残った意味も、シンに守ってもらえるだけの価値も見いだせない人間だった。
目の前にいるのは、深く傷付き、肩で荒々しい息をして、体中の線を赤く警戒色のように光らせるシンの姿。力を使い切ってしまったのか、立つことすらままならず、全身を地面に任せるように転がっていた。
私はそんな彼の傍に跪くように座る。彼の苦しげな瞼が薄らと開いて私を捉えた。
私は人間だ。この世界に生き残った数少ない人間で、人間として生き残った意味すら分からなかった。でも今なら理解出来る気がする。
「ねえ、シン」
彼が僅かに身動ぎをした。今にも失いそうな気を張り詰めて、私の声を聞こうと踏ん張っている。
「私のマガツヒ、食べていいよ」
金色の目が大きく見開かれた。きっと彼は直ぐに理解したんだろう。
マガツヒは、人間やマネカタに苦痛を味合わせることで上質なものが生まれる。
──つまり、私からマガツヒを食べるということは、私を痛めつけることに他ならないと、シンは気がついたのだ。
金色は本能と理性の狭間で大きく揺れている。定まらない視線を彼は無理矢理定めて、わなわなと震える唇から絞り出すような声を出した。
「……イヤだ。それだけは絶対にしない」
「なんで! 死んじゃうかもしれないんだよ!」
「それを、する……くらいなら……、死んだ方が、いい」
シンは掻き消えそうな声で、だけどハッキリとそう言った。
そして緊張の糸が切れたように瞼が落ちた。急いで呼吸を確認すれば、浅いと言えど呼吸はしていて。どうやら気絶しただけのようだ。彼の無事を確認した私は安心感を感じるとともに、無力感に苛まれる。
「なんで……」
返事はない。代わりに彼の浅い呼吸だけが私の声に答える。
「なんで……、そこまでして守るの……」
やっと見つけたと思った。ただの人間が彼にしてあげられることがようやく見つけられたと、本気でそう思っていたのに。
「なんで、なんで……」
お門違いと知りながら、私は初めてシンを恨んだ。
私から貴方の傍にいてもいい理由を奪わないで。