
舌で転がす7度8分の微熱
教室に入った時にそれは起きた。
「どうしたのよ。席にも着かずに」
千晶ちゃんが呆れたように言う。訝しげに私を見る彼女の疑問は正しい。だって、登校直後、教室に入ったと思えばドア付近でただ突っ立っている友達を見れば誰だって同じ反応をするだろう。
「あ、千晶ちゃんおはよ。別になんでもないよ」
「そう?」
笑って誤魔化せば千晶ちゃんは首を傾げながら自分の席へ戻って行った。
私は千晶ちゃんが戻った席を確認してこっそり頷く。
よし、私の席は彼処では無いな──!
元はと言えば、ボルテクス界に巻き込まれたことが原因なのだ。
先生のお見舞いに行ったことで、偶然ボルテクス界に生き残ることができた私。同じくお見舞いに来ていたシンとこれまた偶然一緒に居たことで、ボルテクス界を一緒に旅することになった。
このボルテクス界が長かった!
広大なボルテクス界を二人で(厳密には悪魔と呼ばれる仲魔達がいたのだけど)旅するのは、それはそれは骨の折れることで。時間は途方もなく掛かるわ、ボルテクス界には昼夜の概念が無いからどんどん時間感覚は狂うわで、ボルテクス界で過ごす日々は途方もなく長く感じられた。
その上、旅の途中には精神的にも散々痛め付けられたものだから、尚更ボルテクス界で過ごす日々は実際の日々よりも何倍も長く苦しいものだと味わされたわけで。
そんな長く苦しい旅を終えて帰ってきた元の世界で。分かり合えないと切り捨てた友達との再会や久々に会えたように感じる両親に喜ぶのも束の間。翌日学校に来て直面することになる。
───そう。自分の席を覚えて居ないのである!
何も知らなかった私は学校に来て、教室のドアを開けた瞬間思いらされる羽目になる。
次々と登校して来ては着席するクラスメイトたち。でもまだ朝礼には早くて、着席している生徒は疎らだ。だから、消去法で私の席を特定するには情報が少なすぎる。
全員着席するまで待とうにも、それまで私は荷物を持ったまま教室の何処かで時間を潰すことになる。それは人目を集めることだろう。無論却下された。
しかも朝礼までまだ余裕のあるこの時間。友達と話すために自分の席では無い場所に座り、そのまま話し込んでいるらしいクラスメイトが数名。お願いだからやめてほしい。座られている席の中に私の席があるかどうかすら分からないけれど、先程諦めた消去法ですら私の席を特定することが出来なくなる。本当にやめてほしい。席が分からなくなった人の気持ちを考えてほしい。
千晶ちゃんに「私の席ってどこだっけ?」と聞くのも考えた。でも止めた。
千晶ちゃんもボルテクス界に居たと言えども、その記憶は既に無くなっている。つまり、千晶ちゃんからすれば昨日から何ら変わりのない日常が続いているわけで。そんな中、いきなり「私の席どこ?」なんて聞いたら千晶ちゃんに先程よりももっと酷い顔をされることになる。千晶ちゃんからすれば「昨日も座ってたでしょ? 何言ってるの?」となる。友達にそんな顔されたら立ち直れないかもしれない。もっと酷いことをボルテクス界でやってただろうという突っ込みは無しである。あれはノーカウント。
そんなこんなで八方塞がりになってしまった今。
確か千晶ちゃんの席の近くだったはず……! でも千晶ちゃんの周りはまだ空席だらけで、その空席のどれが私の席なんてわかる訳もなく。呆然と教室の隅で過ごすしか無いのかと途方に暮れ始めた時、聞き覚えのある声が背後から聞こえる。
「……何やってんの?」
シンだった。
ドア付近に立ち尽くす私にやはり訝しげな目線を向けながら、シンは教室に入ってきた。
これはチャンスだ、と私の何かが囁いた。
シンならきっと私の状況を理解してくれる。藁にもすがる思いでシンに周りには聞こえないように耳打ちする。
「シン。私の席知らない?」
「はあ?」
いきなりどうしたんだコイツは。みたいな目線を一瞬向けられるも、直ぐに思い返したのか、「あー」と唸っては指をさした。指先には恐らく私の机なんだろう学習机。小声でお礼を言ってから机に向かう。荷物を置いても今居るクラスメイトから何も変な目で見られなかったことから私の席はここで確かのようだ。た、助かった……。
バッグから教科書たちを机に入れていると、隣に誰かが座った。シンだ。
はて、と首をかしげる。何故ならシンの席は私の隣ではなかったはずで。ならなんで自分の席に座らずにここに来たのかと思うも、シンの顔がずいっと近づいて察する。
シンは私と話をしに来たのだ。
「シンの席、そこじゃないでしょ。忘れちゃった?」
「まさか。お前と一緒にするなよ。ちゃんと覚えてるよ」
どうやらシンは自分の席を覚えているようで。私と同じ時間をあの世界で過ごしていたはずなのに、この差は一体何なのだろうか。不服だ。
「自分の席忘れるなんて間抜けというかなんというか。他人の席を忘れるのはまだしも、自分のはないだろ」
「うるさいなー」
だけどシンの言う通りなので、これ以上何も言えない。長期休み明けでも無いのに(長期ではあったけれど)、自分の席を忘れる羽目になるとは。他人の席ならまだ分かるけど。うん、他人の席?
「でも、よく覚えてたね。私の席。普通忘れない? 他の席なんて」
そう聞くと、シンは何かやらかしてしまったと言わんばかりに目を少し気まずそうに逸らした。右手で口元を覆って、指の隙間からは声にならない溜め息が盛れ出している。
「いや……そうなんだけど。まあ。あー」
シンの珍しい煮え切らない態度に私はちょっと面白くなって、「なになに~? 何か言いづらいことでもあるの?」と茶化す。すると、シンは顔を一瞬で真っ赤に染めて、口元を握りしめた右手で隠す。
「……そりゃ、よく見てた、から」
「え……」
すぐに顔が熱くなった。今にも火を噴き出しそうな私のほっぺたはきっと、目の前のシンにも負けず劣らず真っ赤に染まっているんだろう。
「お前だって、俺の席がここじゃないって、覚えてただろ」
自分の席を忘れていたクセに。
それはそうだ。シンの、言う通りだ。私はシンの席を覚えていた。自分の席は覚えてなかったクセに。シンの席だけは。
「なんで、覚えてたんだよ」
シンの私に問う目が熱を帯びている。自分と同じ答えを望んでいる、そう訴えかけて来る目が。私を見ている。
そんなの、答えは一つしかないに決まってる。だって、私だって、シンの席は自分の席よりも気にしてた席だったんだから。よく見ていた席だったんだから。
「それは、だって」
シンの目の奥の熱は真剣だ。なんで覚えていたか、どうしてシンが私の席を覚えていたのか、なんて考えようとしてはやめる。きっと同じ気持ちなのだから。カマトトぶる必要なんてない。
椅子を少しだけ動かしてシンに近づける。ほんの少し、肩が当たった。視線が合わさる。
「好きな人の席なんて忘れるわけないでしょ」
私の席から少し離れた千晶ちゃんの席。一部始終を見ていた彼女が「やっと付き合ったのね」とボヤいた。