
メルヘンチックな夢だってたまにはいいだろう
進路希望調査、と書かれたプリントを前に、私は今日何度目かも分からない溜息を吐いた。
「進路希望調査の提出は明日までだからなー。忘れないよう気を付けるんだぞ」
軽薄そうな声を上げて黄桜先生は教室を出ていく。
あーあ、先生は気楽でいいなぁ。もう職に就いているんだから、こんなことで悩まなくて。
先生が出ていったのを皮切りに教室内がざわめきだす。その言葉の多くは進路についての話で、みんなが思い思いに将来の夢を語る。
さやかちゃんはこのままアイドルを続けるだとか、大和田君は暴走族を誰かに継いだ後は大工になりたいだとか、その夢は様々で眩しい。自分の夢を持つ人々の話はいつだってきらきらと耀いている。それに対して私は何だろうか。窓辺の隅っこの席で白紙のプリントとにらめっこをしながら幾度となく溜息をはくなんて、お先真っ暗まっしぐらだ。
「篠原さんはなんて書いたの?」
ふとかけられた声に振り向くと、隣の席の苗木君がにこにこと笑ってこっちを見ていた。
「なーんにも。思いつかないんだよね」
「そうなんだ。ボクも一緒」
苗木君は自分の頬を掻いて苦笑する。少しだけ驚いた。クラスの皆のように話しかけてきたのだから、もう既に書き終わっているのだと思ったから。
「ボクの才能って、みんなみたいに仕事とかに関連するものじゃないでしょ。幸運なんてどうやって仕事に活かせばいいんだよ、って感じだよね」
「そうかなぁ。会社からしたら喉から手が出る程欲しいものじゃない? 幸運って。希望ヶ峰学園公認の幸運が我が社に、なんて最高の謳い文句だと思うよ」
「そ、そう?」
そう言って照れ臭そうに頬を掻く苗木君。それを見て、私はまた目の前の白紙に向き合う。上の方に大きいゴシック体で書かれた、進路希望調査という文字が実際の文字よりも嫌に大きく見えて憂鬱になった。
考えろと言われたって、なにも思いつかないのだから。自分が何になりたいかなんて希望は無いし、そんなことを考えて生きてきた時間よりも考えなかった時間の方が遥かに多かった。でも一般的な高校生なら自分の将来を真剣に考えないといけない時期なのだろう。それは分かっているから、こうにも頭を悩ませている。また何度目かもわからない溜息を吐いた。
「篠原さんはさ。小さい時、何になりたかったの?」
考えを放棄して片手でペン回しを始めた頃、苗木君が聞いてくる。
「小さい頃?」
「うん。小さい頃。今は何にも思いつかないのかもしれないけど、昔なら何か考えてたんじゃないかなって」
小さい頃の夢。確かに小さい頃はいっぱい夢を抱いていた気がする。
現実のことだとか全く知らなかった小さい頃は、ケーキ屋さんだとか服屋さんだとか、みんな様々な夢を見ていたような。私なんて、ちょっと欲張りさんで、本屋さんとケーキ屋さんを一緒にやるんだ! なんて息巻いていたような覚えがある。今思えば明らかに無理だけども。
「小さい頃はね、いっぱい夢を見てたかも。司書さんとケーキ屋さんになりたいなんて言ってたっけ」
「女の子らしい可愛い夢だね」
「そう? でも、うーん、今思うとちょっと恥ずかしいかも」
「どうして? 素敵だと思うよ」
思わず回していたペンを止めてしまった。てっきり笑われるかと思ってたから。
小さい頃に抱いていた夢なんて、リアリティが無くて、大きくなった後は夢物語だと一笑に付されるようなものだと思って。いつの間にか夢見ることすらやめてしまっていたから。だから、苗木君が当たり前のように素敵なんて言葉で表してくれるなんて到底思ってなかった。
「そうかなあ」
「そうだよ。いいと思うよ、小さい頃抱いていた夢をかなえるってのも。夢があるんじゃないかな」
そう言ってくれる苗木君の目は真っ直ぐで、嘘や誤魔化しなんて感じさせない優しい瞳だった。
「……じゃあ、いいかもね。小さい頃の夢をもっかい追いかけてみるってのも。流石にケーキ屋と司書を兼任なんて無理だろうから一つに絞るけど」
「どっちでも篠原さんに似合うと思うよ。……まあ、ボクは人に言う暇あったら自分の希望調査を書けって話なんだけどね」
「確かに。苗木君もちゃんと自分の進路決めなきゃじゃん」
「分かってるんだけど……。たぶんボクはその辺の大学に行って、その辺の一般企業就職な気がするんだよね」
「すっごく平凡だね……。苗木君らしいかもだけど」
アハハ、と眉尻を下げて困ったように笑う苗木君。一般企業に就職してる苗木君の姿を考えてみたら、なんだかあんまりにもぴったり過ぎて思わず笑ってしまった。逆にピッタリかもしれない。一般企業に就職して、可愛いお嫁さん貰って、家庭を築いて……。
……そういえば、もう一つ子供のころに抱いていた夢があった。一番笑われそうで、馬鹿にされてしまいそうな。でも、小さい頃は本気でそうなりたいと思っていた一番の夢。
「もう一つあったかも。小さい頃の夢」
「もう一つ?」
「うん。もう一つ。……笑わない?」
「笑わないよ!」
苗木君が大真面目にそう言う。きっと優しい彼なら本当に笑わないだろうと思った。……まあ、言うのはとっても恥ずかしいんだけど。
「あのね……、お嫁さんになりたいって思ってた。優しい人の、お嫁さんになって、幸せになりたいなって」
思った以上に言うのが恥ずかしかった。あの頃はさも普通に言えてたはずなのに、今となっては言うだけで顔が熱くなってしまう。
苗木君は本当にびっくりしたように目を見開いて、ポカンとしていた。そりゃびっくりするだろう。クラスメイトの、しかも隣の席の女の子が将来の夢で、幸せなお嫁さんになりたい、なんて言いだせば。メルヘンだって笑われたって仕方ない。
だけど、彼は言葉の通り絶対に笑わなかったし、馬鹿にすることだってしなかった。
「驚いたけど……、うん。一番いい夢だと思うよ」
なんて、優しく言ってくれるものだから。私は更に顔を真っ赤にしてしまう羽目になったのである。
苗木君みたいな人のお嫁さんになれたらすっごく幸せなんだろうな、なんてちょっと考えてしまった。絶対に言わないけど。