
結局、あなたの手のひらの上
「あーもう! めちゃくちゃ目がかゆいよー!」
原因は明白。憎き杉たちが飛ばす花粉である。なにゆえに人間様が杉ごときの交配に振り回さられねばならぬのか、と恨み辛みを重ねて幾星霜。地球温暖化とか考慮せず、未だ花粉を撒き散らしているであろう杉たちを日本中から一本も残さず伐採してやりたいがそんなことは出来るはずもなく。悲しいことに自分にできることは、杉たちに翻弄されながら痒い目を擦ることしか出来ないのである。
「あんまり擦ると目を傷付けるぞ」
成歩堂が新聞を見ながら呟くが、痒いものは痒いので仕方ない。擦ると目に悪いのも知っているが、だって我慢出来ないほどに痒いのである。平然としている成歩堂の方がおかしいのだ。
「無理だよ、痒すぎるもん。目玉取り出して洗いたいくらい」
「グロいこと言わない。目薬させば良いだけだろ。なんだったらうちの事務所にあるから貸すぞ」
「えっ。目薬あるの?」
「あるよ」
成歩堂は腕を動かして目薬が仕舞われているであろう棚を指す。その位置は私からは少し遠くて成歩堂には近い位置だった。あまりにも目が痒くて歩くのもそれどころでは無い私は唇をワザと尖らせる。
「えー、遠いー。成歩堂が取ってきてよ」
「なんでだよ」
「だってそっちの方が近いじゃん」
テコでも動かないぞ! とソファーから動かない姿勢を見せれば、成歩堂が面倒くさそうに手元の新聞を机に置いた。なんだかんだで成歩堂は甘いのだ。そんなのだから私のようなおんぶに抱っこな人間が生まれるのである。もちろん、反省はしていない。
「はい、目薬」
「わーい。サンキュー」
こっちまで届けに来てくれた成歩堂にお礼を言って目薬を受け取ろうとしたその瞬間、きゅぴーん! と頭の中に閃光が走る。口元を思わずニヤつかせれば、成歩堂が「良からぬ事でも企んでいるんだろうな」とでも言いたげな微妙な表情をした。失敬な。ちょっと悪知恵が働いただけなのに。
「ねえ。目薬、成歩堂がやってよ」
「はあ?」
「私、さすの苦手なんだよね。自分でさすの怖くて、やろうとする度に目、瞑っちゃう。でも成歩堂は私より背が高いし、折角こっち来てくれたんだし良いじゃん」
ニマニマと揶揄うように言ってみれば、成歩堂は大きな溜息を吐いて目薬のキャップを手早く外した。成歩堂が私の提案に素直に乗ってくれたことにポカンとしていると(正直な話、ただ揶揄うつもりだったから本当にして貰おうとは思っていなかったのだ)、成歩堂が「こっち来てよ」と私を急かす。少し驚きつつも、さして貰えるなら良いか、なんて考えてソファーから降りて成歩堂に近づくと、一歩踏み出した瞬間に腕を取られる。
「ちょっ……」
突然の事だったので、身体のバランスを崩しかけるも彼の手が腰に周り、前には距離を詰めて来た成歩堂の体にピッタリと密着して転びはしなかった。が、殆ど抱きしめられるような形に思わずたじろぐ。
「な、成歩堂さん?」
「目薬をさすなら近い方がやりやすいだろ?」
綺麗にニッコリとした笑顔を至近距離で見せられる。しかもお互いの吐息が掛かりそうな程密着したこの体勢なものだから、心臓がうるさいくらいにドキドキし始める。
「いやいや。近すぎませんかねえ!」
「恨むならぼくに目薬やってくれって頼んだ自分にしなよ」
それはそうなのだけれども! 心の中で自分の愚行に反省するも時既に遅く。腰をギュッと寄せられ、少しずつ近づいてくる成歩堂の顔に、私の頭は一瞬でパンクし思わず目を瞑ってしまった。
───ぴちょん。
しかし、自分が想定していた感触は一切来ず。自分の顔が体験したのは、冷たい一雫が、目から少し離れた頬あたりに当たって流れていく感触だけだった。───えぇ?
戸惑った私がようやく目を開けると、私から顔を逸らして目薬を見ている成歩堂。
「目薬って意外と難しいな」と飄々と口にする。そして呆気に取られる私に振り向いてはニヤリと笑った。「期待した?」なんて言って。
「し……てない!」
「折角さそうと思ったのに、お前が目を瞑るから失敗したじゃないか。もう一回やろうか?」
「やらなくていい!」
全身で否定を示すように少し暴れると、成歩堂は苦笑して「わかったわかった」と腰から手手を抜いて体を離した。体が離れた彼を見て、してやられたのだと漸く理解して悶絶する。
こんなはずではなかったのに。悔しさと恥ずかしさで綯い交ぜになっていると、成歩堂に名前を呼ばれる。また何かされるのか、と疑心に思いつつも顔を上げる。すると、すぐ近くに彼の顔があって。先程想定していた感触が唇に当たった。
「あんまり人を揶揄うのも良くないぞ」
そう笑って成歩堂が離れていく。
そして成歩堂が一定離れた時、ようやく自分が何をされたのか悟って、一気に顔が爆発でもするんじゃないかってくらいに熱くなった。
「おっ、お、お前が言うなー!」
私に出来たのはそれくらいで。
ははは、という彼の笑い声を聞きながら、金輪際この男に目薬を頼むものかと心の中で強く誓うのだった。