
思惑通りに敗北して
「恋愛って、付き合う前までが一番ピークだよね」
大ジョッキを片手に私は肩をがっくりと落してそう呟いた。
場面は居酒屋のカウンター。学生時代から今日まで交友が続いている私と成歩堂は、定期的にこうやって二人で飲みに行っている。
「何だよ、急に」
「だってそうでしょ? 付き合う前まではどうやって振り向かせよう、お互い両想いになっちゃったらどうしよ~、なんて色々考えたり、駆け引きをしたりしてキャッキャ楽しんだりするじゃん」
成歩堂は少し呆れた様な目でこちらを見て、「そういうものかな……」とぐびり、と手に持ったビールを飲んだ。そういうものかな……、ではなく、そうなのだ。
男の子がそうやって夢想するかどうかはともかく、女の子は夢見る子が多いので、付き合う前から色々妄想しちゃったり、どうやって彼を振り向かせられるのかをひたすらに考えたりするのだ。たぶん。
「それでいざ付き合うと、自分と相手の性格差とか、自分が知らなかった相手の嫌な面だとか、付き合って見えて来るものが、付き合う前に考えてた色んなことと違ってたりして、そこに幻滅したりするの」
「それは、勝手に期待しといて、勝手に裏切られた、って言っているのと同じじゃないか?」
「そうとも言う」
お酒を飲みつつも冷静な成歩堂はこの話題の痛い所を的確に指摘するが、今回の話はそれが主軸ではないので無問題である。お酒に浸された私の脳が正しいことを言っている保証はないが、恐らくそうだと言える。
「確かに勝手に期待して勝手に裏切られたって言っているのと同じなのはそうなんだけど。実際はさ、擦り合わせをしていかないとダメでしょ。自分の理想と実際の現実が全て一致してるなんてそんなの殆ど無いんだから。擦り合わせていかないと、理想と現実の折り合いを見つけないと、恋人として立ち行かなくなっちゃう」
「それはまあ、そうだね」
「でもさ、そうやって擦り合わせていくうちに段々思ってくるんだよ。『付き合う前の時の方が楽しかったな』って。そんな風に思えてくると、付き合うことが消化試合みたいに思えてくる」
自分が好き勝手考えて行動できる付き合う前と違って、相手に合わせることも要求される恋人という関係性は、相手にも自分にも負担を強いられる。それがどんどん疎ましくなって、付き合う前の方が良かったと思うようになって、その想い自体が相手への想いを上回ってしまった瞬間、――破局する。
要はどんどん疲れてくるのだ。
「なんかさあ。……つかれちゃったなーって」
そう言って机に突っ伏していた体を起こしては手に持っていたジョッキを呷る。提供されて少し時間が経っているそれは、泡もほとんど消えており、ぬるい温度の液体が喉奥に流し込まれた。あまり美味しいとは言えない味だった。
そう話し終えてジョッキ内の酒を飲み干そうと飲み始めた私と対照的に、成歩堂は飲みもせず、かといって何かを言うでもなく黙っていた。指を顎に当て、何かを考えている仕草だけをしていた。そして私がお酒を飲み干した頃、成歩堂は指を顎から離すと、ようやく口を開いた。
「……もしかしてさ。お前、振られたんじゃないの?」
瞬間、噴き出すかと思った。良かった、ちょうど飲み干したタイミングで。と心の底から思った。しかし、私の口からは何も噴き出されはしなかったが、勢いのせいで大いに咽た。ゴホッ、と胸を叩きながら鎮静化を図る私に成歩堂は慌てた様子で「大丈夫か?」と問う。元凶、お前なんですけど。
「……ッ、ないから」
「ん?」
「振られてないから! 振ったの、こっちだから!」
まだ苦しい喉から無理矢理捻りだした私の言葉に成歩堂は一瞬呆気にとられたかと思うと「否定するのそこかよ」と呆れ笑う。
「だからか。ようやく合点がいったよ。最近飲みに誘われてなかったと思ってたのに、急に誘いが来たものだから」
「……ご想像の通りで」
冒頭、定期的に飲みに行く仲だと言ったが、それは一部違う。異性同士である私たちは恋人が居るときは誘わないし、飲みに行かない。団体で飲むときなら誘うかもしれないが、定期的に行われている一対一での飲みは基本的に誘われない。つまり、定期的に行われる一対一の飲み会がぱったりと途絶えた時、そしてそれが再開された時は、そう言う事なのである。
「久々に誘いが来たと思ったら、まさか愚痴とはね。いや、仕事の愚痴とかはよく聞いていたけど、恋愛関連の愚痴を聞くことになるとは」
「うるっさいなぁ!」
少しニヤリと面白そうに笑う成歩堂に、酒に酔って沸点の下がった私はすぐに不満を表すも、面白い話を得たと圧倒的なアドバンテージを得た成歩堂には敵わないのは明白だった。それにしてもムカつく顔だ。法廷では確固たる証拠を得た時はいつもこんな顔をしているのだろうか彼は。そう思うと相手をするであろう検察側の人々(特に御剣)が哀れに思えてきた。合掌。――いやいや、今はその笑みがこちらに向けられているから他人の心配をしている暇はないのだが。
「なるほどなあ。さっきまでの話と照らし合わせたら、付き合ってみたら全然想像と違って、合わせようと頑張ったけど結局疲れて振ったみたいな感じか」
「ぐっ……」
「当たりっぽいな」
当たりも何も大正解なので何も言えない。何も言わない私に更に笑みを深めた成歩堂は(尚更ムカつく!)「付き合う前に色々期待するタイプなんだな、お前」と明確なとどめを刺しに来た。彼にそう判断させる情報を与えてしまったのは私なのだが、さらなる追撃による完膚なきまでの敗北を私は成歩堂に認めざるを得なかった。
「……その通りです」
頭を下げ、全てを認めた私に成歩堂は「ふうん」と頷く。
「じゃあ、今は彼氏いないってことか」
「……そうだよ」
彼氏が居たら、そもそも成歩堂を酒の席に誘ってなんかいない。
「そもそも性格合わなかった、し。喧嘩も多かったから、別れて正しかったんだと思うけど」
合わなかったものは仕方がない。それは分かってはいるけれど、振った側とはいえ好きになった人と合わなかったという事実はなかなかに堪えるもので。ジョッキの隣に置かれていたお冷のグラスを喉に流し込むと、先程のビールよりも格段に冷えていたそれは喉どころか体全体を冷やす様な気がしてなんだか寂しい気分にさせた。
「大体さあ。女友達と一日遊びに行っただけで、寂しいんです俺ってアピールすごかったんだよ! 私が振らないと、相手、多分メンヘラだったから、もっと酷いことになってそうだったし別にいーもんね!」
そう言い切って勢いで新しいお酒を頼む。しんみりとした空気感は苦手だから、明るく振舞って成歩堂に同意を求めようとして振り向いて、絶句した。――成歩堂はずっと真顔だった。
さっきまでのニヤリとした顔も私を茶化そうとする表情も無くて、彼の真剣そうな顔に、思わず新しく置かれたジョッキに伸ばす手を止めた。
え、なに。これ。困惑する私を他所に成歩堂がこちらを見る。目と目が、合う。
「なるほ、」
「ぼくだったら、合わないなんて言わせないって言ったら、どうする?」
どうする、も何も、訳が分からなかった。いや、分からないわけじゃない。唐突で突然のソレに私の感情が追いつかなかった。
「わ、かん、ない」
「合わなかったから別れたのが正解だったなんて、だから仕方がなかったなんて言わせないし、付き合う前の方が楽しかったなんて言わせるつもりもないよ。お互い性格はわかってるだろ?」
「そ、そんなの、わかんないじゃん、恋愛での合う合わないなんてお互いの性格が分かってても、実際付き合わないと分からないことだってあるでしょ」
「実際付き合わないと分からないなら、付き合ってみたらいいだろ。やらないと分からないんだろ? ならやってみればいい」
「は……」
とんでもない暴論だった。成歩堂はまたニヤリとその口元を歪ませて、それでいて真剣な瞳はそのままにこちらを射抜くように見ている。――駆け引きだ。最初に彼に話した、付き合う前の駆け引きを彼は始めたのだ、とようやく気が付いた。
私が付き合っているよりも楽しいと言った駆け引きを、私に合わせて始めたのだ、この男は。それでいて、私に付き合う前の方が楽しかったと言わせる気もないと豪語した。それは口説きにしてはとんでもなく下手だと思った。でも、成歩堂ならいいな、とも思ってる自分も居る。
先ほど置かれたジョッキに伸ばすのをやめて机の上で彷徨わせていた手。その手を成歩堂がそっと握る。冷えていた手が成歩堂の掌から伝わる熱で少しずつ温められていく。その熱が心地いい。
「ぼくじゃ、ダメ?」
その言葉が決め手だった。彼の真剣なまなざしに甘く跳ねた心臓を誤魔化すように長い溜息をする。「成歩堂は、私でいいの?」と聞けば酷く嬉しそうに先ほどまでの真剣な目つきを蕩けさせて「お前だからいいんだよ」と言うものだから、私もそっと彼の手を握りなおした。