
どこにでもあるしあわせだったし、どこにもないしあわせだった
決してあり得ないIFのお話
「――ウス! クラウスッ!」
怒鳴るような声に僕の意識が浮上していく。しかし、まだ寝ていたいという本能からの欲求に僕は再度身を任せようとすると、今度は酷く体を揺り動かされた。
「もうっ! 貴方が起こしに来てって言うから来たのに、遅刻したって知らないからね!」
……遅刻? 何に。眠気に支配された頭ではよくわからない。僕は、この後になんの予定があったのだったか……。
「そんなに寝ていたいなら、そこでずっと寝てればいいのよ。私は貴方を置いて先に行って、もうすぐ来る先生の奥さんと、あ・な・た・の・分・ま・で、いーっぱい話してくるんだから!」
僕の傍に居た誰かが踵を返して何処かへ行ってしまう気配。その軽やかな足取りと共に楽しそうな鼻歌も聞こえてくる。
――先生。先生の奥さん。僕のこの後の予定。
眠ろうとしていた頭はいつの間にか微睡をやめて、複数の単語を描いてはぐるぐると回転し始める。眠るには僕の頭の中はとても賑やかで。そして、少しの間を置いて僕はそれを思い出した。
「あ、ああ、ああああっ!」
「あら。"Good Morning"、クラウス」
跳ね上がって起きた僕の視界に、腕を組んでふふんと笑う幼馴染――の姿を見つける。
"Good Morning"と告げる彼女のそれは勿論皮肉だろう。僕がぐっすりと眠っていたグレッセンヘラーカレッジの寮の窓の外は既に真っ暗な夜に覆われている。途端に僕の顔から血の気が引く。
まずい、寝過ごしたかもしれない!
「っ! 今何時なんだ!」
「十八時」の声は慌てた僕に比べてとても落ち着いた声だった。
「はっ……? 十八時? 十九時じゃなくて?」
混乱する頭の中でも、講義でレイトン先生に沢山しごかれた僕の頭は正確な約束の時間を叩き出した。確か、レイトン先生の奥さんが来られるのは十九時ごろだったはず。
「そう。どうせ貴方まだ準備も整ってないのに寝落ちしたんだろうと思って。だから一時間も前に起こしに来てあげたの。感謝してほしいくらい」
「感謝って……。あと三十分は寝れただろうに……」
恨みがましく呻く僕に、彼女はにっこりと微笑んで、僕の机に置いてある――一人で食べるには多く飾られた茶菓子を一つ取っては口に放る。おい、それは僕のなんだけど。
「それは自分の姿見てから言ってほしいわー。ぐーっすりと寝てた跡が面白いくらいに残ってるから」
「あ、これ美味し」ともう一個取ろうとする彼女を注意する暇もなく、僕は洗面台の前に走って自分の姿を確認する。寝ぐせで跳ねた髪、くしゃくしゃになったシャツ。英国紳士を名乗るにはとても不釣り合いな姿の僕がそこにはいた。
「その姿で先生と先生の奥さんにご挨拶したいって言うのだったら私は反対しないけど。……まあ、少なくとも百ヤードは離れててほしいけどね」
百ヤードって。そんな離れてたらご挨拶も何も出来ないじゃないか。僕はそう零しそうになったが、無様な僕を自分の恩師に晒さずに済んだのはこの幼馴染のお陰なのだと思い返して言葉を飲み込む。とても不本意だけど、彼女のお陰で僕は恩師の大切な人に英国紳士として恥をかくことなくご挨拶が出来るのだ。ここは彼女に感謝しなくてはならない。
「ふふ。ここはありがたく礼を言っておくよ。起こしてくれてありがとう、」
返事は無い。
不審に思って、髪を整えてから洗面台を出ると、まだ茶菓子を頬張りながら(なんと三袋目だ!)、そっぽを向くの姿があった。
「どうしたんだ? 聞こえなかった? ありがとうって言ったんだけど」
「聞こえてたから、二回も言わなくていいから!」
そう言って振り返る彼女の顔は少し赤らんでいる。
――なんだ。感謝してほしいって自分で言ったクセに、実際感謝してもらったら恥ずかしくなったのか。
ふはっ、と堪えきれずに零したボクの笑い声を彼女は見逃さない。むすっとその顔を可愛らしいほどに歪めて、「シャツ、さっさと着替えてきたら」とまた茶菓子を食べ始める。もぐもぐと矢継ぎ早に僕の机から茶菓子を取っていくのを見るに、大分気に入ったのか、僕への軽い仕返しか、もしくはその両方か。たぶん彼女のことだから、両方なのだろうなと思いながら新しいシャツを手に取って僕は洗面台に再度戻っていく。
元より、あのお菓子は彼女も気に入ってくれるだろうと思って買っていた代物だ。本当に彼女の口にあったのなら幸いだ。でも、どうせなら二人一緒に食べたい。だけどこのままだと十分もしないうちに彼女一人で食べ尽くしてしまうだろうから。そうなる前に戻らないとな、と僕は新しいシャツに袖を通した。