
ここが奈落であってほしかった
「やほー」
扉を開けると聞こえてきた間延びした声。薄いカーディガンの下に見えるキャミソールとショートパンツという出で立ちでやってきたに「またかよ」と呆れたように言えば、は手に持ったコンビニ袋を目の前に掲げて「日向君の分も買ってきたから許してよ」と笑った。俺はを締め出す訳にもいかず、そのままを部屋に上がらせる。よくあるいつもの光景だった。
「そうしたらね、教授ってば『「推し」ってなんですか?』って聞いて来たの。思わずみんなで笑っちゃってさぁ、今時推しを知らない人っているんだあって、あはは」
「そりゃあ歳食った人なら分からないことだってあるだろ」
テーブルの上に乱雑する酒を一つ一つ飲んでいきながら、俺たちは話す。話す内容はゼミであった面白い話だったり、最近あったことの愚痴だったり日によって様々だ。毎週末、俺かのどっちかが酒を持ち込んでは宅飲みをする。今回のようにが俺の家に来たり、俺が酒を持っての家に行ったり、そんな感じだ。最近はが持ち寄ってくることの方が多いが。
「何度説明しても教授分かんなかったみたいで、『それって彼氏とどう違うんですか?』なんて言い出したんだよ。全然違うよね」
そうやってケラケラと笑うが、俺は少し酒を飲む手を止めてしまった。酒と話に夢中なは気が付いていないようだ。それでいい。俺は止まった手を動かして缶を呷った。「すごい飲みっぷり」との茶化す様な声が聞こえた。
俺とは男女のそういう関係ではない。高校の時から続いた、ただの友達の延長線だ。だからお互いに気にすることなく自分の家に相手を上げることが出来る。断じて彼氏彼女にはならないから。はそう思っている。だから俺の目の前で、ラフな格好でもまったく気にしない。すらりとショートパンツから延びる長い脚や、ポニーテールにすることで見える少し赤くなった首筋、一つ間違えてしまえば胸元が見えてしまうキャミソール。勘違いしてしまいそうな服装をしていても俺はできない。だって俺たちはただの友達なんだから。
「あ、お酒なくなっちゃった……」
「俺のでよければ冷蔵庫に何本かあるぞ」
「日向君最高。日向君みたいな友達を持てて私は幸せ者だよ」
「はいはい。早く取って来いよ」
は立ち上がって酒を取りに行く。歩くたびに揺れる髪。揺れてそのうなじをチラつかせている。俺は新しく缶を開けて飲み始める。さっきの光景を忘れたくて何度も飲むのに、頭に焼き付いて離れない。戻ってきたが目を丸くして「アル中になるよ」と忠告してくれるのに、俺の目線は脚や胸元に行くばかりでまた浴びるように酒を飲むだけだった。
そんな時、流れっぱなしのテレビからコマーシャルが流れ始める。あ、とが零して目線がテレビを追った。出ている俳優に熱い視線を向けている。どこか誰かを重ねるようなそんな視線。俺には向けられない種類の視線。
「そういえば日向君には話してなかったっけ」
が言う。止めてくれ、聞きたくない。心の中で俺がそう叫ぶ。真綿で首を絞めるような、それでいて心地よかったこの関係を崩したくないと、そう泣いている。
「私、好きな人できたんだよね」
頭をガンと強く殴られたような気がした。
何度も飲み干した酒のせいなのか、それとも限界を迎えた頭のせいなのか。その後のことは霧がかかったように思い出せない。思い出したくないのかもしれない。ただ、ベッドに組み敷いたに落としたキスが、あんまりにも温かくて柔らかいものだったから無性に悲しくなったのだけは覚えている。
なあ。勘違いしたかったよ、俺は。俺だって、俺だって、好きな奴が居るんだとお前に話したかったよ。なんでダメなんだよ。なんで俺たちは友達止まりなんだ。
「なんで」
俺の下でが泣きそうな声で言った。瞳は震え、信じられないという目が俺を見ている。その視線にはあの俳優に向けていた熱も好意も何もなくて、失望と恐怖が自分に向いているのに気が付いて、胸が張り裂けそうな気がした。俺が欲しかったのはこんなのじゃなかった。泣きたいのは俺の方だった。
「なんでだろうな」
俺は自嘲する。なんで俺じゃダメだったんだろうな。