ラムネの泡になって消える

 煩いほど蝉が鳴く季節。学生なら喜びで迎える長期の夏休みのある日。鳴上は耳がおかしくなりそうな中、ラムネの瓶を握ってバス停のベンチに座っていた。
先程まで喉を潤していてくれたはずのラムネはこの暑さと握りしめる手のひらの体温に温められ、既にぬるくなってしまっている。かといって捨てる訳にも行かず、飲む気にもなれず。早く冷房の付いたバスに乗りたいとそう考えるだけだった。
「もしかして鳴上くん?」
唐突に呼ばれた声に答えれば、その声の主が笑った。
「鳴上くんだ」声の主は桜だった。
は軽やかに走っては鳴上の隣に座った。
「私もね、今日はバス乗ってお出掛けしようかと思ってて」
そうか、とは答えれなかった。鳴上には既にそう答える元気が今は無かったのだ。
実は鳴上はに惚れていた。ただでさえ暑い今日なのに、惚れた相手が自分のすぐ近くに座るだなんて、普段から冷静沈着な鳴上と言えど早まる心臓を抑えられず、体感温度が更に増した気がした。体中を流れ落ちていく汗も体感だが一割増ししたような気がして落ち着かない。
そんなことを露も知らないが額から落ちていく汗をハンカチで拭う。それを鳴上は目線でおった。
「暑いね」が呟く。
「暑いな」鳴上は答える。だが、同時によりも俺の方がもっと暑いのだろうとそう感じた。
はそんな鳴上に気づくことも無く、視線をぐるりと回して一つの場所に行き着く。──鳴上の持つラムネだった。
「それラムネ? 良いな、私もお茶飲もっと」
そう言うとはバッグからペットボトルを取り出して、一思いに仰いだ。
飲み込んで動く喉。首筋を垂れる汗。一つ一つの動きから鳴上は目が離せない。カランカランと氷の軽い音だけが涼しげに。しかし鳴上には熱に浮かされ、全てが妙に扇情的のように見える。あつい。脳が沸騰するかのようだ。
がペットボトルを下げて振り向く。
「好きだ」
途端、全てが止まったような気がした。いや、気がしただけなのだが。蝉の声は途切れ、の目は驚いたように少しずつ大きく開かれていっていた。鳴上の目にはスローモーションのように見えた。
言った。言ってやった。心臓は跳ねるように動き、身体を流れていく血は外の気温よりも熱く感じられた。こんなにも暑いのに心は謎の爽快感すら覚えていた。しかし。
「……あー、うん。ごめんなさい」
何よりも冷たい言葉が一閃した。
「私、好きな人いるんだ。だから鳴上くんの気持ちには答えられない。ごめん」
頭の中が真っ白になったようだった。言われた言葉を把握出来ず、鳴上は手の中のラムネを落としそうになってようやく正気に戻った。ラムネをしっかりと持つと、彼の背後から長い影を伴った車が現れる。が気がついてそれに顔を向ける。それは鳴上たちの座るベンチの前に停車して独特な音と共に扉を開く。バスだ。
「ごめん。私このバスだから」
切り出された謝罪は何への謝罪だったのか。短い別れの言葉の後、彼女はバスへと乗り込んだ。鳴上はそれを見送るだけだった。
が乗り込んだ後、鳴上を乗車する客ではないと判断したバスは暫くの停車時間を経て、その場から走り去っていってしまった。その場に残るのは鳴上一人だけだ。
嫌に暑い。頬を滴り手で拭った汗は本当に汗だったのか。聞こえていなかったはずの蝉の鳴き声が煩くて何も考えられやしない。
「俺、振られたのか」
そう呟いて、すっかり生ぬるくなったラムネを勢いよく飲み乾す。炭酸が抜けかけていたそれは嫌な程甘くて、舌の上で弾けては痛かった。

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