
ぼくの肯定をきみにあげるよ
逢魔が時。何人もの作家がそう表してきただろう夕方。その時間に窓からの夕日に照らされた彼女が呟いた。
「本が読めないの」
苗木は歩みを止める。いつものように声を掛けようとした喉からは何も出てくることは無く、その腕に抱えられた幾冊の本たちが妙に重く感じられた。
は超高校級の読書家だ。彼女は探偵、SF、恋愛、怪奇、幻想などありとあらゆる小説を読破しており、今もなお新しく生まれ続ける本たちを読み続けている。国内外の昔の文豪たちによる由緒ある本や昨今活発なライトノベルでさえも彼女の対象であり、彼女の感想やレビューは多くいる読書家たちのハイライトを浴びている。彼女の発言を参考に本を読むという人だって少なからずいる。それこそ苗木もそうだった。それまでは漫画くらいしか本を読んで来なかった苗木だが、彼女と同級生になったのをきっかけに、彼女におすすめされた本をほんの少し齧ってみるつもりで読み始めてみると、流石は超高校級の読書家、小説に興味が無かった苗木でさえも頁をめくる手が止まらなかったほどだ。
そんな彼女が「本を読めない」と言うのは大問題であり、その発言を身近で聞いた苗木はその耳を思わず疑った。
「読めないの? 本」
腕に抱えた本を近くの机に降ろしながらそう聞いた。
「うん。読もうと思っても数行で止まるの」
彼女は夕日に照らされた顔をこちらに向けて言う。その目には読書に対する情熱も本に対する好奇もなにもなかった。
苗木は置いた本を彼女に渡す。「これ、面白かったよ」「そう。それなら良かった」かつて彼女にお勧めされて借りた本。読み終えたので返しに来ていた。こんな時に言う事ではないと思ったが、冒頭の発言でいうタイミングを逃していたのだ――しかし、彼女は何をするまでもなく淡々と本を受け取っては鞄に仕舞った。少しだけ面喰ったが、すぐに立て直して苗木は声を掛けた。
「よかったらだけど、一緒に帰らない?」
「そうだね。もうこんな時間だし」
彼女は椅子を引いて立ち上がる。それを苗木は何も言わずに見ながら、心の中で何とも言えない複雑さを感じていた。
「私、本屋寄ってから帰るから」
帰路の途中にが言った。
寮までの帰り道、読書家の彼女が本屋に寄っていくのはそう珍しいことではなかった。しかし、本が読めないと先程彼女は言った。それなのに本屋に寄ると言うのは何故だろうか。いつもなら感じない疑問に苗木は得も言われぬぎこちなさを感じる。
「ボクも一緒に行ってもいい?」
がその目を少しだけ見開く。彼女が本屋に寄る時、いつも苗木はと別れてお互い一人で帰宅をしていたからだ。苗木とが一緒に本屋へ寄るということは今まで一度も無かった。だから驚いたのだろう。彼女は見開いた目を苗木に向けながらしばらくの間無言だった。
「別にいいけど……。私、今、本のお勧めとかできないよ?」が目を伏せる。
「いいよ。ボクが一緒に行きたいだけだから」そう苗木が返せば、はその伏せた目を上げて苗木を今度は真正面から見つめた。
「変なの」
あまりにも直球な彼女の感想に苗木は思わず苦笑を漏らした。多くの本を読み、感想を幾度となく大衆に述べてきた彼女の言葉に嘘偽りはない。そんな彼女に自分は変な人間として映ったのかと笑ってしまう。
「そう言われたの、初めてだよ」
意外そうにが眉を上げた。
そこは大きい本屋だった。入ってすぐに目に付くところには新刊が綺麗に並べられ、奥に進めばジャンルごとに分けられた本棚がいくつも乱立している。本屋に行けばすぐに漫画の置かれたエリアに行く苗木には活字の並ぶのだろう文庫本が敷き詰められた本棚にはあまり慣れなくて、本棚をちらちらと見るばかりでその手には何も取ることはなかった。はそんな苗木を気にすることなく慣れた足つきでどんどん奥へと歩いていく。たまに本棚をその目で流し見ながら、結局止まったのは置かれた本棚をすべて丸ごと一周した後だった。
「何を読めばいいのか分からないの」それは小さな声だった。
其の本棚にが手を伸ばす。本を取るのかと思ったが、その手は本棚から本を取り出すことは無く、一本だけ立てられた人差し指がつぅっと本の背をなぞった。そして突如無造作に本棚から一冊の本を取り出して冒頭のページをパラパラとめくる。その捲る速度は読む速度とは言い難く、彼女もそれが分かっているのか本をすぐさま閉じてしまった。元の場所に本を戻し、彼女はようやくその手を下ろした。
「昔は適当に本を取って気の赴くままに読んでた。……今は、本を読む前にネットで評判を検索してみたり、誰かにお勧めされてから読むの」一呼吸を入れて彼女は続ける。「気が付けば有名な本しか読まなくなって……、結局みんなが納得するような感想しか出てこなくって……」 は振り返る。くたびれた笑みだった。
「私は読書家という体面を保つために本を読んでいるだけなのか、本が好きだから本を読むのか。もうわかんないの」
苗木には分からなかった。苗木は彼女ほど本を読まない。好きな時に漫画を読んで、飽きたら他のことをする。だから彼女の苦悩を完全に理解できるなんて言えない。そんなこと、と言えてしまえば楽だが、彼女にとって読書家というのは超高校級の肩書になるほどのものだ。今まで彼女を作り上げてきた物であって、アイデンティティであって、軽い言葉で言い表せるものではない。なのにそれが今崩壊を迎えようとしている。苗木には苦悩は理解できないが、事の重大さだけは理解できる。
「そうだ」突然思いついたことだった。
「ここの本屋をぐるっと回ってみて、知らない本を一冊だけ読んでみようよ。感想なんて言わなくていいし、前評判なんて一切見ずに直感で選んでさ」 そう言ってから思いだしように付け足す。「あ、もしよかったらボクには感想教えてよ。面白いんだったらボクも気になるしさ」
対するは困惑したようだった。キョロキョロと目線をさ迷わせて、どうすればいいのかを悩んでいる。
「知らない本って……」
「別にここの本全部読破したってことは無いでしょ? さんが知らない本だってきっとあるよ」
ここの本屋にはいくつもの本棚が連ねて立っている。苗木たちの身長よりも大きいソレがいくつもあるのだ、読書家の彼女と言えど全てを読めている筈もない。
は少しまだ困惑しているようだったが、「分かった。ちょっと待ってて」と呟くと、本棚の影へと消えていく。そして少し経った後、一冊の本を持って帰ってきた。
「これ、作者も知らない名前だし、題名も聞いたことない……」
「どうしてそれを選んだの?」
「……表紙が可愛かった、から」
少しだけ照れたように言う。苗木の頭には表紙が可愛いという理由で幾つかの少女漫画を買って帰ってきていた妹の姿が浮かんだが、目の前の少女が妹と同じような理由で本を選ぶようになるまで一体何年の空白があったのかと考えてはやめた。
の持つ本には購入意欲を煽るような帯も何もついていなかった。マイナーな本なのだろう。
「読めるかな……」 レジへと向かう最中、不安そうにが呟く。
「読めなかったら、それはそれでいいと思うよ」
「いいの?」
「ボク、本は娯楽だと思ってるから。読めなかったら自分には合わなかった、でいいんだよ。無理して読む必要なんてどこにも無いんだからさ」
「それだと苗木君に感想言えなくなっちゃうよ」苗木は笑った。「合わなかったっていうのは、それはもう充分感想だよ」
翌日、苗木は登校してからそわそわと落ち着かなかった。一日で本を読み終えるかなんて限らない。いやでも彼女は超高校級の読書家なのだし……。そう思っては首を振る。合わなかったら読まなくてもいいと言ったのはどこの誰だ。でももし本当に本が読めなくて彼女が落ち込んでしまっていたら……。そう悶々と考えては落ち着かなかった。
「おはよう」
その延々と続いていきそうな自問を止めたのは、その彼女の挨拶だった。「おっ、おはよう」と上擦った声を出して苗木も挨拶を返す。そして思わず気になっていたことが突然口から飛び出てしまう。
「どうだった?」
苗木は主語もなく突然そう聞いた。普通の人だったら、脈絡のないその言葉に「何が?」と返しただろう。しかし、はその意図を介したのか、机の上に鞄から本を出してそっと優しく題名が書かれたその背を触った。
「つまんなかった」
あっけらかんとした答えだった。苗木は思わず拍子抜けする。つまらなかったのか。
「中盤までは面白かったんだけどね。急に話の展開は雑になるし、伏線も張られてなかった事がいきなり中途半端に出されても訳分からないし。表現力も稚拙で、情景描写なんてお世辞にも上手なんて言えなかった」
口を開けば開くほど出て来る不満の数々。そんなにつまらなかったのか、と思わず不憫に思ってしまうほどの不評が彼女の口からポンポンと出続ける。「でもさ、」 彼女の口元が突然緩んだ。「久々に楽しかったかなあ」 は笑っていた。
「ページをめくるたびに次のページが楽しみなんだ。どんなことが書かれてるんだろう、この先どんな風に話が展開していくんだろうって。ご飯食べるのも寝る間も惜しいくらい続きが、本が読みたくて読みたくてたまらなかった!」そう楽しそうに語る。その口元に広がる笑みには昨日まで見えていた苦痛の色はどこにも見えない。
「ありがとう。苗木君」
「へ?」情けない言葉が零れる。
「昨日苗木君が提案してくれてなかったら、きっと本を読むのも苦痛になってたと思う。でも苗木君が居てくれたからまたこうやって何のしがらみも無く昔みたいに読書を楽しめたよ。だからありがとう」
そう言って笑う。
「やっぱり私、本読むのが好きなんだって。そう分かったから」
憑き物の晴れたその笑みに苗木は思わず注視してしまって、急遽正気に戻って何だか恥ずかしくなって早口のように喋る。「それ読み終わったんだよね?」 は頷いた。
「ボク、それ借りて読んでみてもいい?」
は呆気にとられたようだった。キョトンとした顔で苗木の顔を見つめている。
「……あー、私的には、なんだけど。……つまらなかったよ?」
「さんがそんなにつまらないって言うのもすごいなって。逆に読んでみたいんだ」
は尚更訳が分からないという顔をした。
「やっぱり苗木君って変だよね」苗木は笑った。「そう言うのさん位だよ」
結局、借りた本は彼女のようには行かずに一日で読み終えることは無く、五日ほどかかってから彼女に返却することになった。彼女の感想を聞いていたからだろうか。中盤までは確かに面白かったが、終盤にかけての突然の場面転換には本を読み慣れていない苗木も置いて行かれたし、確かに突飛な終わり方だったというのが苗木の感想だった。
「さん見てみてよ」
そう言ってスマホの画面をに向ける。彼女が覗き込む画面には、先日彼女が読破した本が掲載されていて、その帯には「名作中の名作」のような煽り文句が大きく書かれていた。
「大絶賛、みたいだね」と。
「そうみたいだね」そう言ってスマホをスリープさせる。可愛い表紙の描かれた本は消えて、黒色が彼女の顔を反射していた。
「どう思う?」
「どう思うって……」は茶化すように笑った。「私には合わなかったよ」
「ボクも合わなかったな」そう言って笑い合った。