鋭角の夜が明けるまで

目が覚めた。
暑さからではない汗がだらだらと流れ、体の震えは止まらず、歯の根は噛み合わない。自分の体を引っ掻き回したい衝動に駆られる。恐ろしい。先程まで見ていた夢を思い出せない。思い出さない方が正解だと頭のどこかがそう告げる。まるでボクがボクじゃないようだ。いつものシャツに着替えて堪らずコテージを逃げ出す。まだ陽は出ていない。暗闇の中ボクは駆け出した。此処はボクにとって眩しすぎる。此処ではない何処かへ行きたかったのだ。

とても長く走っているように錯覚したのに、ボクが辿り着いたのは砂浜だった。ボクは何処にも行けない。自嘲じみた笑いが零れる。ボクみたいな人間が何処かに行けるわけも無いのだ。そうだよと嘲りの含んだ声が聞こえる。あろうことかボクの左手からだ。アンタみたいな雑魚、何も出来ないんだから。その声がとても不快に思えて、海に駆け出す。夜の海は冷たい。ざぶざぶと波をかき分けて奥へ。ズボンやシャツに海水が染みるが知ったことではない。この左手を黙らせなければ。嘲笑は更に酷くなる。それを黙らせようともっと奥へ深くへ。

「何してるの狛枝くん」
ハッと正気に戻る。憔悴した顔で振り向くとそこにはさんがいた。砂浜からこちらを心配そうに覗き込んでいる。しゃかしゃかと砂が音を立てて彼女が近づいてくる。ダメ、ダメだよ。ボクなんかに近づいたら。後ずさろうとしていきなり深くなった水深に転びそうになる。あっと声がでた次の瞬間に左手を掴まれた。さんだった。間に合ったと安心したように微笑む彼女に見蕩れる。途端、彼女が左手を掴んでいることを思い出して彼女の手を振り払った。ダメだ。ダメだ、彼女にボクの左手なんて。
「本当にどうしちゃったの」
怪訝そうに此方を見るさん。潮が満ちるから危ないよと今度はボクの右手を掴んで歩き出す。海からボク達は出ていく。ボクはボクの居るべきではない場所に帰ってきてしまった。海の冷たさで死んだように冷えた左手はずっと喚き散らしている。
「なんでこんな夜中に海に?」
さんが腰に手を当てて聞く。表情は嘘も誤魔化しも許しませんと語っていた。ボクはその表情に負けて正直に話してしまう。信じて貰えないだろうけどと最初に付けて。
「怖い夢を見て……ボクの左手が、ボクに言うんだ、ボクに、ボクに」
「大丈夫だから落ち着いて」
「ごめん……ボクなんかには何も出来ないって、ボクは何処にも行けないって、笑うんだ、ずっとボクを」
突拍子も無く俄には信じ難い話をさんは一つ一つ頷いて聞いてくれる。その姿にボクは安心して少しずつ落ち着きを取り戻す。先程まで囚われていた恐ろしいなにかが取り払われていく。

「つまり左手が悪いんだね」
えいっとさんは冷えたボクの左手を両手で掴む。その瞬間ぞわりと背筋に震えが走った。ダメなんだよ、ボク如きの汚れた左手をキミが掴んだら。堪らず左手を引っ込めようとする。さんは負けじと両手で掴む。
「大丈夫だよ」
だって狛枝くんの左手だよ。なんにも汚れたりなんてしてないよ。さんはそう微笑んでボクの左手を優しく撫でた。張り詰めていた空気がようやく溶けたようだった。大丈夫大丈夫と子供のようにあやす彼女の声に何故か涙が止まらない。狛枝くんも此処に居てもいいんだよ。彼女の体温で冷えた左手は少しずつ温まっていく。いつのまにか左手からの罵倒は聞こえなくなっていた。