コキュートスの底でまた会いましょう

 あの日からシンがおかしい。
 あの日というのは、シン達が裕子先生のお見舞いに行った日のことだ。あの日は特に何か特別な日だったとか、変わった日だったとかそんなことはなかったと思う。でも、あの日あの病院から帰ってきたシンは今までとどこか違っていて。
 仲が良かったはずの勇くんの挨拶にあまり答えなくなったり、千晶ちゃんと話している時もどこか上の空だ。それを見る裕子先生はその様子を不思議がることはなく、かといって注意もせずただ見守るだけだった。
 勇くんも千晶ちゃんも何かがおかしいと気が付いている。でも、それを聞き出せないような空気が今の彼にあった。
 シンは確かに変わっている。

 そして私は今シンの部屋に居た。とても唐突だが、幼馴染の特権というやつで窓からお互いの部屋に侵入できるのだ。高校生になってからそんなことをすることはめっきりなくなったけど、今回のような緊急事態なのだから許してほしい。
 部屋に入った私はぐるりとシンの部屋を見渡す。特に変わったわけでもない部屋。ごく一般的な男の子の部屋だ。部屋探しがシンの変わった理由の特定につながるとは思えないけれど、何もしないよりかはお得だろう。
 そう思いしばらく探してみたが、本当に何も見つからなかった。やっぱり部屋を探すなんてことが間違ってたのかな。何の成果も得られなかったし、私は窓越しに自分の部屋に帰ろうとしたその時だった。
 バタン。扉が開いて閉まる音。振り返って音源を確認すれば、そこには目を丸くしたシンがいた。
 お邪魔してまーす。そうやって軽く挨拶をしようと思った。思った、だけなのに。突然の痛みが私の頭を襲った。
 痛い。痛い。痛い。なんで。
 痛みに頭を押さえて床に蹲れば、次の衝撃が私を襲う。次は首だった。
 何かに押し倒される形で、私に馬乗りになった何かが容赦なく首を締めあげている。苦しい。息ができない。
 新しい酸素を吸おうとしてヒューヒューと音を立てる私の喉。朦朧とする意識の中で、私に馬乗りになって首を絞める何かを私は見た。シンだった。

「あ、あ、ちが、ちがうんだ、ちがう」
 そう叫びながらシンは私の首にかけた手の力を強めていく。その手の力は男子高校生とは思えないほど強くて、私の腕力で到底引きはがせなかった。なのに、その締めているはずの手はガクガクの怯えるように震え、首を絞める本人はその目から大粒の涙を滂沱としていた。
 なんというアンバランスさだろうか。その狂ったような不自然さが、私になぜか首を絞めているはずのシンへの疑念を不思議と抱かせなかった。
「いやだ、俺、、にげろ、おれ、もう悪魔じゃ」
 半狂乱になって殆ど単語だけを喋るシン。
 逃げろって言ったって、首を絞めているのはシンなのに。それを分かっているのかいないのか、シンはただひたすらいやだ、にげろとうわごとのように繰り返す。
 そんな彼をもうはっきりとしない意識で見つめていると、彼の顔や腕にうっすらと緑色の線が見えた気がした。死を前にした幻覚かもしれない。脳に酸素がいかなくて何も考えられない。ただ、なぜかその緑色が綺麗なものだと思えたのだ。
「みどりいろ、きれい」
 もう何を言ったのかさえもわからない。声に出ていたのかもわからない。でも、その言葉を聞いたシンが何かに怯えるようにパッと首から手を離した。

 解放された気道から体は酸素を取り入れようとして咽る。ぜぇぜぇと肩で息をしながらなんとか呼吸を整え部屋を見渡すと、私から限りなく離れようとしてシンが部屋の隅で小さくなっていた。
「シン」
 私は近づいて声をかける。先ほどまで首を絞められていたにもかかわらず、不思議と恐怖心はなかった。
 私の声にシンの肩がびくりとはねた。おそるおそるといったようにシンが怯えた目をこちらに向ける。
「シン、大丈夫?」
 彼を安心させるようにやさしく声をかける。するとすごい勢いで手を引っ張られてバランスを崩す。また床に転がるのかと思えば、そうではなく、今度は優しい力でシンに抱きすくめられていた。
、ごめん、ごめん、ごめん……」
 子供のように泣きじゃくる彼に私は一瞬呆気にとられて、すぐに彼の背中を撫でてやる。
「もう俺悪魔じゃないのに、あの時の感覚がまだ残ってるんだ、ずっと消えないんだ」
 シンはそう言って私の服を握る手を強める。その手にはもう緑色は見えない。
「このままじゃ俺、いつかを殺しそうで」
 悲痛な叫びだった。
 きっと嘘じゃない。そして本当に私はいつかシンに殺される。
 だって、さっきもシンに殺されかけていた。シンが正気を取り戻したから生きているだけで、シンが元に戻らなかったらおそらく私はあのまま死んでいた。
 シンが体を震わせる。その震えは抱きすくめられている私にも強く伝わってきて、彼の恐怖が直に伝わってくるようだった。
 そう遠くない未来、私はシンに殺されるだろう。そしてその時シンに残った人間性も死ぬんだろう。私たちはたぶん一緒のタイミングで死ぬ。そう思うとなぜかそんなに怖くない気がした。二人で死ねるなら寂しくない。
 私は体を起こしてシンと向き合う。濡れた瞳と目が合った。
「私、シンにならいいよ」
 殺されても。
 シンが目を見開く。その瞳孔の奥、緑色の悪魔が嗤った気がした。